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ヨーロッパの世界遺産 World Heritageを勉強中

2008年11月のアーカイブ

シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群

シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica


(英名) Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica
(仏名) Syracuse et la nécropole rocheuse de Pantalica
登録年 2005年


ユネスコ ヨーロッパ 世界遺産 シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群Syracuse and the Rocky Necropolis of PantalicaシラクサSiracusa
シラクサ(イタリア語:Siracusa、シチリア語: Sarausa, 古典ギリシャ語: Συρακοῦσαι / ラテン語表記: Syrakousai)は、イタリア共和国のシチリア島東岸に位置する都市で、シラクーザ県の県都である。標準イタリア語の発音としてはシラクーザが近いため、こう記述されている文献も多い。現在の人口は、約125,000人。沖合の小島オルティジア島(Ortigia)もシラクサの一部である。歴史的な遺跡など、多くの観光スポットがある。 シラクサの近くには、カターニア、ノート、モーディカ、ラグーザといった都市がある。2005年には「シラクサとパンターリカの断崖の墳墓群」の名で世界文化遺産に登録もされている。

古代
紀元前734年頃、ギリシアのコリントスの植民者たちがこの場所を発見し、低湿地帯を意味するシラコ(Sirako)と名づけたのが起源である。土地が肥沃であり、また原住民たちは彼らに好意的であった。都市は発展し、地中海においてギリシアの最も繁栄する都市国家となった。古典ギリシア語での名称はシュラクサイという。

紀元前5世紀後半、ペロポネソス戦争でシチリアでも勢力を拡大しようとするアテナイに対してスパルタと結んで戦った。シュラクサイはアテナイの敵であるスパルタに援軍を送り、アテナイの船を破壊したり、島を包囲して餓死させるなどして、スパルタの勝利に貢献した。

紀元前4世紀初頭、僭主ディオニュシオスはカルタゴに対して戦争を仕掛け、シチリア島全域を支配することに成功した。

シラクサ出身の最も有名な人の一人が、自然哲学者のアルキメデスである。彼の発明品の中には、古代ローマによるシラクサの包囲に対抗するための軍事兵器もあった。シラクサは3年間持ちこたえたが、紀元前212年陥落した。この戦争の最中に、アルキメデスは殺された。


ローマ支配から中世にかけて
年月をかけゆっくりと衰退しながらも、シラクサはシチリアにおけるローマ政権の首都の地位にあり、プラエトルの配置がされていた。また、市は帝国の東西の間にある通商の重要港のままだった。市のキリスト教化は、タルススのパウルスと、シラクサ初代司教であった聖マルツィアーノによって広がった。マルツィアーノは、シラクサを西方における改宗の一代中心地としたのである。この迫害の時代に、どっしりとしたカタコンブが掘られた。

ヴァンダル族支配の後、シラクサとシチリア本島は東ローマ帝国のベリサリウスによってローマ人の元に取り戻された(535年12月31日)。663年から668年、シラクサはコンスタンス2世の宮廷が置かれ、全シチリア教会の首都大司教座がおかれた。

878年に起きた別の包囲戦は、市への情け容赦ない略奪で終わった。そして2世紀にも渡るイスラム支配が始まったのである。シラクサは島の首都の地位をパレルモに奪われた。大聖堂はモスクに変えられ、オルティジア島の建物は次第にイスラム様式に沿って再建された。どのようであれ、市は、重要な通商関係を保ち、文化と芸術が同時期に華開いた。12世紀のシチリア人詩人で最重要の人物であるイブン・ハムディスは、シラクサに暮らしていた。

1028年、東ローマの将軍ゲオルギオス・マニアケス(en:George Maniaces)がシラクサを再征服し、聖ルチアの聖遺物をコンスタンティノープルへ送った。オルティジア島にある名前の知られない城には、彼の名前が付けられた。その後、シラクサはホーエンシュタウフェン家の支配に入った。1085年、ノルマン人がサラセン人最後の要塞の一つシラクサへ入った。ルッジェーロ1世とシラクサ伯ジョルダーノが夏季の長い包囲戦の末勝ったのである。新たな地区が建設され、他の教会と同様に大聖堂が復興した。


シラクーザ大聖堂1194年、シュヴァーベン家の神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世がシラクサを占領した。1205年から1220年までの短期のジェノヴァ支配の後、シラクサは皇帝フリードリヒ2世が奪回した。彼はマニアーチェ城、司教宮殿、ベッロモ宮殿の建設を始めた。フリードリヒの死で社会的不安と封建制の無秩序の時代が始まった。アンジュー家とアラゴン王家の争いで、シラクサはアラゴン側に立ち、1298年にアンジュー家を敗退させた。この褒美として、宗主国アラゴンから多大な特権を授けられた。地元の有力貴族の優越ぶりが、アベラ、キアラモンテ、ナヴァ、モンタルトへの城の建設で見せつけられた。


近代と現代
シラクサは、1542年と1693年の二度、破滅的な地震に見舞われ、1729年にはペストが大流行した。17世紀の破壊は、ヴァル・ディ・ノート全体と同様に、シラクサの外観を永久に変えた。地震被害にあった都市は、典型的なシチリア・バロック様式に沿って再建され、この様式は南イタリア芸術の典型的な例とされている。1837年のコレラ大流行は、ブルボン家支配に対する反乱を引き起こした。処罰としてシラクサからノートへ県都が移されたが、社会不安が全体的に阻止されることなく、シラクサ人は1848年シチリア独立革命(en:Sicilian revolution of independence of 1848)に立ち上がった。

1865年のイタリア統一運動後、シラクサは県都の地位を取り戻した。1870年、荒れるがままであった市壁と、オルティジア島と本土とをつないでいた橋が再建された。同じ年、鉄道網が建設された。

1943年、連合国側とナチス・ドイツの空爆で激しく市は破壊された。連合国側のシチリア侵攻の際のハスキー作戦は、島西部を攻撃するイギリス軍とともに1943年7月9日から10日の夜にかけ始められた。バーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス第8軍団は、ほとんど抵抗なしに侵入最初の日にシラクサを占領した。港はイギリス海軍の基地として使われた[1]。市の西部には、およそ1000人が埋葬された戦没者墓地がある。第二次世界大戦後、シラクサの北部地区は激しく、しばしば混沌とした、素早い工業化による過程で生じた拡大を経験した。


みどころ


古代の建築物

●アレテュサの泉(Fountain of Arethusa) - オルティジア島にある。伝説によれば、ニンフのアレテュサがアルフェウスに追われ、この泉に身を隠したとされる。
古代ギリシャ時代の劇場 - 古代に刑務所として使われていた洞窟オレッキオ・ディ・ディオニジオ(en:Ear of Dionysius)がある。

●アンフィテアトルム - ローマ帝政期のもの。一部は岩をくりぬいてつくられた。

●ローマ時代の墓、通称『アルキメデスの墓』 - 2本のドーリア式円柱で装飾されている。

●オリンピアのゼウス神殿 - シラクサ郊外3kmにあり、紀元前6世紀頃の建築。

シラクーザ大聖堂
ユネスコ ヨーロッパ 世界遺産 シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica●シラクーザ大聖堂 - 7世紀にゾシモ司教によって建てられた。本堂一つと2つの側廊からなる。本堂の屋根、アプス内のモザイク画はノルマン時代からのもの。ファサードは18世紀に再建された。16世紀のピエトロ・リッツォによる聖ルチアの銀製像、ルイージ・ヴァンヴィテッリ作の天蓋、アントネロ・ガジーニによる『雪の聖母』像が有名。

●サンタ・ルチア聖堂 - 東ローマ時代の建築。伝説によれば、聖ルチアが303年に殉教した場所に建てられたという。現在の姿は、15世紀から16世紀にかけ建てられたもの。古い部分は入り口とアプスに未だ保存されている。教会地下には『聖ルチアのカタコンブ』がある。

●サン・パオロ教会(18世紀)

●サン・クリストフォロ教会(14世紀建設、18世紀再建)

●サンタ・ルチア・アッラ・バディーア教会 - 1693年の地震後、バロック様式の大建築物として建てられた

●サンタ・マリア・デイ・ミラコリ教会(13世紀)

●スピリト・サント教会(18世紀)

●イエズス会派教会

●サン・ベネデット教会(16世紀、1693年以降再建) - マリオ・ミンニティによる『聖ベネディクトゥスの死』を所蔵する。

●コンチェジオーネ教会(14世紀、18世紀再建) - ベネディクト会派修道院を併設

●サン・フランチェスコ・アッリンマコラータ教会

●サン・ジョヴァンニ聖堂 - ノルマン人によって建設され、1693年の地震で破壊された。主祭壇はビザンツ様式。サン・ジョヴァンニのカタコンブを含む。

ユネスコ ヨーロッパ 世界遺産 シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalica教会その他
●マニアーチェ城(en:Castello Maniace) - 1232年から1240年にかけ建設。フリードリヒ2世皇帝時代の軍事建築。
●考古学博物館 - 青銅器時代から紀元前5世紀までの発掘品を所蔵
●パラッツォ・ランツァ・ブッケリ(16世紀)
●パラッツォ・メルグレーゼ=モンタルト(14世紀)
●大司教宮殿(17世紀) - 18世紀後期にできたアラゴン図書館を含む
●パラッツォ・ヴェルメクシオ - 現在の市庁舎。
●パラッツォ・フランチカ・ナヴァ
●パラッツォ・ベネヴェンターノ・デル・ボスコ - 原型は中世に建てられた。
●パラッツォ・ミリアッチョ(15世紀)
●エウリアロス城 - 市の9km郊外に、僭主ディオニシウスが建てた古代の要塞。


ユネスコ ヨーロッパ 世界遺産 シラクーザとパンタリーカの断崖の墳墓群Syracuse and the Rocky Necropolis of Pantalicaパンターリカの岩壁墓地遺跡
パンターリカの岩壁墓地遺跡は、紀元前13世紀から紀元前7世紀までの5000以上の墓が残る、シチリア島の巨大なネクロポリスである。パンターリカは、シチリア南東部のフェルラ・ソルティーノ間のアナポ川(Anapo)・カルチナラ川(Calcinara)の渓谷に位置している。

地理
パンターリカは、アナポ川やカルチナラ川によって形成された渓谷に囲まれた台地であり、観光客が近寄りやすい小道をいくつもそなえている重要な自然の地形である。アナポ渓谷はシラクサとヴィッツィーニを繋いでいた古代の道に沿った 10km の小道で近づきやすくなっている。

この辺りは3つの野生生物保護区(Riserva Naturale Orientata Pantalica, Valle dell'Anapo, Torrente Cava Grande)に含まれている。

パンターリカのネクロポリスはシラクサの都市遺跡とともに、「シラクサとパンターリカの岩壁墓地遺跡」の名で、世界遺産に登録されている。パンターリカの登録範囲は205.86 haである。

紀元前13世紀前半に、シクリ人や他のイタリア半島系の人々が到達するとともに、海岸の集落群は突然姿を消した。先住民族は海岸の施設群を棄て、防衛的見地から丘の上や居心地が良いとはいえない山々に避難し、大集団を形成していた。

古代の記録は、ヒブロン王(Hiblon)が彼らの所有地の周縁に赴き、紀元前728年にメガラ・ヒュベアレア(Megara Hyblaea)を創設したと述べている。しかし、紀元前664年に内地にアクレス(Acres)を創設しつつ、シラクサが後に興って勢力を伸ばしたことが、王国の崩壊を決定付けた。この時代の証言となっているのが、アナクトロン(Anaktoron)や、岩壁に人工的に穿たれた小洞窟群の約5000の墓からなる広大なネクロポリスである。

ネクロポリス周辺の地域はマグナ・グラエキア時代だけでなく、中世初期の数世紀間も人々がいた。その人々は、侵入してきた異民族や海賊たちによって追い払われた。後にはサラセン人たちが安住の地を求めて、近づきにくい場所に近いこの地にそれを見出した。今日でも、ビザンティン帝国時代に岩の中に築かれた住居の遺跡や、クロチフィッソ洞窟(Grotta del Crocifisso)、サン・ニコリッキョ洞窟(Grotta di San Nicolicchio)、サン・ミチダリョ洞窟(Grotta di San Micidario)などの壁画の描かれた小さな礼拝所の遺跡が残っている。


パンターリカのネクロポリス
パンターリカには広い地域に渡ってネクロポリスが散在している。

フィリポルトのネクロポリス(Necropoli di Filiporto)
フェルラ(Ferla)から9 km のところに位置している。膨大な数の墓が残っており、丘の中腹、アナポ盆地(Anapo basin)、都市の最終段階の姿をとどめる地域などに広がっている。)紀元前13世紀から紀元前9世紀の遺跡である。
ノルド=オヴェストのネクロポリス(Necropoli di Nord-Ovest)
このネクロポリスは紀元前12世紀から紀元前11世紀のもので、一帯でも特に古いものの一つである。
カヴェッタのネクロポリス(Necropoli della Cavetta)
紀元前9世紀から8世紀の遺跡であるが、一帯にはビザンティン帝国時代の建造物群も残っている。

北のネクロポリス(Necropoli Nord)
紀元前12世紀から紀元前11世紀ころのネクロポリスで、最も広大なものである。
アナクトロンの宮殿(palazzo dell’Anaktoron)は、大きな積み石による巨石建造物で、様々な長方形に区切られた部屋がある。この宮殿は、ミュケーナイ文化様式の宮殿の優れた模倣のようにも見え、専門家にはシチリアにはミュケーナイ人の作業場があったという仮説を立てる者もいる。これらは紀元前12世紀から11世紀のもので、パンターリカの遺跡の中でも早い時期に属している。



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ヴァル・ドルチャ

ヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia)

(英名) Val d'Orcia
(仏名) Val d'Orcia
登録年 2004年

ユネスコ ヨーロッパの世界遺産 World Heritageヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia)



ユネスコ ヨーロッパの世界遺産 World Heritageヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia) ヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia) は、トスカーナ州シエナ県にある広い谷で、北東にはモンテ・アミアータとウンブリア州との州境がある。ヴァル・ドルチャとは、「オルチャの谷」と言う意味を表わし、オルチャ渓谷とも訳される。

名前の元となったオルチャ川が中央を横切り、快い風景が拡がり、中世に起源を持つ様々な街があり、その中の二つピエンツァとモンタルチーノは特筆に値する。

谷は重要な「自然、芸術、文化」公園にもなっており、すばらしい景観と、多くのルネサンスの芸術家により伝搬された注目に値する芸術の保存のために2004年7月2日よりUNESCOの世界遺産として認められた。

ヴァル・ドルチャに含まれているコムーネは、カスティリオーネ・ドルチャ、モンタルチーノ、ピエンツァ、ラディコーファニ、サン・クイーリコ・ドルチャである。

他の重要な町はモンティッキエッロ、バーニョ・ヴィニョーニ、モンテネーロ・ドルチャとモンテジョーヴィである。 多くの農事業者や農家、要塞、塔などが分散して、離れ離れになって静かなこの場所にある。

特徴的な木は糸杉、食飲物は「ペコリーノ・ディ・ピエンツァ」と「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」。


ユネスコ ヨーロッパの世界遺産 World Heritageヴァル・ドルチャ (Val d'Orcia)


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チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群

チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群 Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquinia


(英名) Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquinia
(仏名) Nécropoles étrusques de Cerveteri et de Tarquinia
登録年 2004年


ユネスコ世界遺産 チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群 Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquiniaチェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群(Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquinia)は、イタリアの世界遺産の一つである。チェルヴェーテリ近郊のバンディタッチャ遺跡とタルクイーニア近郊のモンテロッツィ遺跡という、エトルリア人が残した2ヶ所のネクロポリスが対象となっている。


バンデタッチャのネクロポリス
バンディタッチャのネクロポリス(Necropoli della Banditaccia)は、チェルヴェーテリ近郊にあるネクロポリスの遺跡である。バンディタッチャという名前はイタリア語のBandoに由来している。

総面積は400 haで、そのうち訪問可能なのは 10 ha である。全体で1000もの墓があり、その多くが小丘を覆っている。この遺跡は地中海世界最大のネクロポリス(死者の都)である。墓の作成された年代は紀元前9世紀のヴィッラノヴァ文化(Villanovan culture)期から、紀元前3世紀の後期エトルリア時代にわたっている。古式ゆかしいものは、井戸状の竪穴を掘りそこに死者の灰を納めるが、簡素な窪地状のものも存在している。


墓の様式
エトルリア期の墓には、2つの様式が見られる。

道なりに一直線に並んで築かれている「立方体」状の墳丘。訪問可能な区域は2つの道(« via »)、つまり6世紀のvia dei Monti della Tolfa と via dei Monti Ceriti から成り立っている。
凝灰岩の中に築かれた円形状の墳丘。岩を直接刳り抜いた内部は、玄室、羨道や幾つかの部屋がある。

ユネスコ世界遺産 チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群 Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquinia考古学的知見
この古代文明の遺跡について現在分かっていることの一定部分は、墓の装飾の詳細に負っている。墓の中で最も有名なのはdei Rilieviと呼ばれるものとその紀元前4世紀のレリーフだが、それは碑文からマトゥナス(Matunas)なる人物のものであることが分かっている。墓にはすぐれたフレスコ画群や薄浮彫、生活用具の数々を描いた彫刻などが見られる。

最も新しい時期の墓は紀元前3世紀のものである。それらの中には外部にCippusを具えているものもあり、男性向けには円筒型、女性向けには小さな家の形をしている。

出土品の大部分は、現在、ローマの国立エトルリア博物館(Museo Nazionale Etrusco)とチェルヴェーテリの国立考古学博物館(Museo Nazionale Archeologico)で展示されている。


モンテロッツィのネクロポリス
モンテロッツィのネクロポリスは、タルクイーニア近郊にあり、6000以上の墓が発見されている。バンディタッチャ同様、フレスコ画の描かれた墓なども含まれている。

ユネスコ世界遺産 チェルヴェーテリとタルクイーニアのエトルリア墓地遺跡群 Etruscan Necropolises of Cerveteri and Tarquinia



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ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティ

ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy


(英名) Sacri Monti of Piedmont and Lombardy
(仏名) Sacri Monti du Piemont et de Lombardie
登録年 2003年


ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardyは、イタリアのピエモンテ州とロンバルディア州にあるユネスコの世界遺産登録物件名。


概要
サクロ・モンテ(Sacri Monti,Sacred Mountains)とは聖なる山の意味(サクリ・モンティは、サクロ・モンテの複数形表記)。本物件では北イタリアの9つのサクロ・モンテが世界遺産に登録されている。

サクリ・モンティの造営は、15世紀から16世紀にかけて、エルサレムやパレスチナへの聖地巡礼の代替として始まったといわれている。当時、エルサレムはイスラム勢力下にあり巡礼はほぼ困難であった。

1480年頃にバルセシア(Valsesia)のヴァラッロ(Varallo)を見下ろす丘の上に最初の聖山が造営された。 その後、1535年のトリエント公会議の結論を受け、プロテスタントの宗教改革に対抗するため、ヴァラッロをモデルとして、Crea,Orta,Varese,Oropa,Ossuccio,Ghiffa,Domodossola,Valpergaの8つの聖山の造営が行われた。特にこれらはミラノ司教カルロ・ボッロメーオの強い支援を受けた。

18世紀以後も、サクリ・モンティの造営は行われた。しかし、このころの建築は宗教動機が薄れたデザインになっている。

●ヴァラッロのサクロ・モンテ
1480年頃に造営された初期のサクロ・モンテで、数多くの彫刻やキリストの受難を描いたフレスコ画が残る。エルサレムを模して作られたので新エルサレムとも呼ばれる。16世紀の対抗改革の影響を受けて変更が加えられた。ナザレやベスレヘムを模したレイアウトに、45の教会がメイン通りに沿って建っている。

ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy
サクリ・モンティSacri Monti テンピオ広場(Piazza del Tempio)

ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy
新エルサレム

●サンタ・マリア・アッスンタのサクロ・モンテ(クレア)
1589年に造営。現在は23の教会と5つの住居跡が残る。
ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy
サクロ・モンテ(クレア)のパラダイス礼拝堂
Paradise Chapel



●サン・フランチェスコのサクロ・モンテ(オルタ)
ここの造営は3つの期間に分けられる。第1の期間は、1590年から1630年頃まででそのころより古い様式のものが多い。第2の期間は17世紀末までで、バロック様式。第3の期間は、18世紀末までで、脱バロック様式を狙ったものが多い。
ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy
サクロ・モンテ(オルタ)
Sacro Monte of Orta
Dionigi Bussola



●ロザリオのサクロ・モンテ(ヴァレーゼ)
1474年から巡礼地となる。1604年から約2kmの道に沿って造成が始まる。多額の寄付金が早くに集まり、他のサクロ・モンテより早く工事が進み、1623年までに13の教会が完成。1698年に全ての教会が完成した。教会、井戸、噴水の様式は彫像やフレスコによる装飾で変化が与えられている。

ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy



●ベアータ・ヴェルジネのサクロ・モンテ(ビエッラ)




●ベアータ・ヴェルジネ・ディ・ソッコルソのサクロ・モンテ(オッスッチョ)
ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy



●サンタ・トリニタのサクロ・モンテ(ギッファ)
ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy



●カルヴァリオのサクロ・モンテ(ドモドッソラ)
ヨーロッパの世界遺産 World Heritage ピエモンテ州とロンバルディア州のサクリ・モンティSacri Monti of Piedmont and Lombardy
サクロ・モンテ(ドモドッソラ)
Sacro Monte di Domodossola
Dionigi Bussola



●ベルモンテのサクロ・モンテ(ヴァルペルガ)



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ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部)

ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部)Late Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily)


(英名) Late Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily)
(仏名) Villes du baroque tardif de la vallee de Noto (sud-est de la Sicile)
登録年 2002年


ユネスコ世界遺産 ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部)Late Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily)

ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(ヴァル・ディ・ノートのこうきバロックようしきのまちまちLate Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily) )は、イタリアのシチリア島の東南部にあるユネスコの世界遺産登録物件名。

ユネスコ世界遺産 ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部)Late Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily) 概要
シチリア島の東南部にある8つの町、カルタジローネ、ミリテッロ・イン・ヴァル・ディ・カターニア、カターニア、モディカ、ノート、パラッツォーロ・アクレイデ、ラグーザ、シクリの街並みが世界遺産に登録されている。登録を受けた2002年でも、これらの町は約120,000人の居住者をもつ生きた街並みである。

これらの町は、中世前半に形成され城や教会を中心に発展した。しかし1693年1月9日および1月11日に発生した地震では、約93,000人の死傷者をだし、これらの町は壊滅的な打撃を受けた。地震の後、地元の貴族らの働きにより後期バロック様式で統一された建物で町が再建された。

ヴァル・ディ・ノートとは、シチリアの古い行政区分ヴァッロ(Vallo)の一つを指している。


ノート
ノートの町は、古い町を完全に放棄し、南に約10kmの場所にある丘の上に新たに建築されることになった。ノートには、モンテヴェルジネ聖堂、サン・ドメニコ聖堂など、バロック建築の傑作も残る。街中の住宅のバルコニーには空想の動物や女性像などの彫刻が施され、バロック様式を象徴し、さながら町全体が美術館の様相である。また地震前のノートの町の遺構も残っている。


ユネスコ世界遺産 ヴァル・ディ・ノートの後期バロック様式の町々(シチリア島南東部)Late Baroque Towns of the Val di Noto (South-eastern Sicily) サン・ドメニコ聖堂
ラグーザ

ラグーザは古くはイブラ (Ibla) と呼ばれた町である。深い渓谷に区切られた3つの丘の上にある町である。

地震後、同じ場所で町の再建が計画され、9つの主な教会と7つの主な貴族邸宅を含む建物がバロック様式で建設。統一した街づくりがなされた。


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ティボリのデステ家別荘

ティボリのデステ家別荘

(英名) Villa d'Este, Tivoli
(仏名) Villa d'Este, Tivoli
登録年 2001年

ユネスコ世界遺産ティボリのデステ家別荘Villa d'Este, Tivoli

ティヴォリのエステ家別荘 Villa d'Este, Tivoli (ティヴォリのエステけべっそう)は、イタリアのティヴォリにあるユネスコの世界遺産登録物件名。4.5haにという広大な敷地の庭園内には、オルガンの噴水や百噴水など噴水が500ほど設置され、後期ルネッサンス期の代表的な庭園として現在に伝わる。


概要
ティヴォリは、ローマの東約30kmにある丘陵にある町。穏やかな気候と豊かな森に囲まれ古代ローマ時代から上流階級の保養地であった。

16世紀半ば、エステ家の枢機卿イッポーリト2世・デステ(アルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの子)はローマ教皇の座を巡る争いに敗れて、1550年9月にティヴォリの隠匿生活を決めた。

イッポーリト2世は、ベネディクト会の修道院だった建物を住居として、その周囲に大規模な庭園を作らせた。設計は、ピーロ・リゴーリオ(1500年 - 1583年)で、彼は考古学にも造形のある人物であった。

ユネスコ世界遺産ティボリのデステ家別荘Villa d'Este, Tivoliまず1563年から1565年に斜面をならし、アニオ川から地下水道を別荘内に引き込む工事を行った。1565年ごろから本格的な、本格的な建築物の工事が始まりった。しかし1572年にイッポーリトが死去した時点でも、完成はまだ先のことであった。

その後、イッポーリトの甥にあたるルイージ・デステにより別荘は引き継がれるが、彼の財力では別荘の維持が精一杯であった。1605年に、アレッサンドロ・デステの所有となり、レイアウトの変更など大規模な改修が行われた。1641年以降はモデナの公爵家のもとので続けられた。

18世紀に入ると別荘邸宅は放棄され、荒れ放題となったが、1920年から1930年の間、修復運動が行われるようになった。しかし、1944年の爆撃でさらなる破損を被った。

ユネスコ世界遺産ティボリのデステ家別荘Villa d'Este, Tivoli


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エオリア諸島

エオリア諸島(Isole Eolie)

(英名) Isole Eolie (Aeolian Islands)
(仏名) Isole Eolie (Iles Eoliennes)
登録年 2000年


ユネスコ世界遺産 エオリア諸島(Isole Eolie)エオリア諸島(―しょとう)またはエオリエ諸島 (Isole Eolie) は、シチリア島北方、ティレニア海南部にY字型に並んで浮かぶ島々である。他にリーパリ諸島という呼び方もある。

主な島は7つあり、リーパリ島 (Lipari)、サリーナ島 (Salina)、ヴルカーノ島 (Vulcano)、ストロンボリ島 (Stromboli)、パナレーア島 (Panarea)、フィリクーディ島 (Filicudi)、アリクーディ島 (Alicudi)である。

これらの島はイタリアのシチリア州メッシーナ県に属していて、コムーネとしてはサリーナ島以外の島はリーパリに、サリーナ島は、サンタ・マリーナ・サリーナ 、レーニ、マルファの3コムーネに分れている。

アイオリスの諸島は火山島の形成、破壊、および進行中の火山の傑出した現象記録を提供している。 これらの島は少なくとも18世紀に2つのタイプの噴火に関する事例を火山学界に提供し、以来研究され続けている。こうして200年間以上、地質学者の教育で顕著に貢献しており、火山学や地質学分野において大いなる価値を提供し続けている。


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ヴェローナ市街

ヴェローナ市街(Verona)


(英名) City of Verona
(仏名) Ville de Vérone
登録年 2000年


ユネスコ世界遺産 ヴェローナ市街(Verona)ヴェローナは人口27万人のイタリアの都市であり、ヴェネト州ヴェローナ県の県庁所在地である。 アディジェ川沿いにあり、ガルダ湖の約30km東に位置する。 ドイツのミュンヘンおよびイスラエルのベツレヘムと姉妹都市協定を結んでいる。

中世の町並みがよく残っている。街の中心部には古代ローマ時代の円形競技場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)があり街の象徴となっている。毎年夏にはアイーダなどの野外オペラが開催される。シェイクスピアの戯曲『ヴェローナの二紳士』『ロミオとジュリエット』の舞台としても知られる。2000年、市街は世界遺産(文化遺産)として登録された。


歴史

ユネスコ世界遺産 ヴェローナ市街(Verona)古代
ヴェローナの歴史は先史時代に遡る。先史時代末期にはすでに集落が作られていた。ラエティー人、エトルリア人、、ガリア人、ローマ人と交流があったことが出土品からわかっている。紀元前3世紀には共和政ローマとの同盟関係に入った。

ガリア人のローマへの進攻、カルタゴとのカンナエの戦いにおいてはともにローマの同盟都市としてローマ側で戦った。また紀元前1世紀のゲルマン人、テウクニー族やキンブリー族との戦いにも参加した。

紀元前1世紀には、ポンペイウス法によりローマ植民地の地位を与えられ、のち紀元前42年または41年にローマの領土に編入され、ローマ都市となった。市民の集会所であるフォルムや、円形競技場、円形劇場などが市の中心に建てられた。アディジェ川の渡河点であるヴェローナは、ローマと北方および東方属州への連絡点として、四つの街道が交わる交通の要衝にあり、たびたびローマの覇権を争う戦いの舞台となった。

例としてウェスパシアヌスとウィテリウス (69年)、フィリップス・アラブスとデキウス (249年)、コンスタンティヌス1世とルリキウス (312年) がある。ヴェローナはガリエヌスによって築かれた城壁をもっており、ルリキウスはこれによって篭城したが、敗れた。

キリスト教の公認後、ヴェローナはゆっくりとキリスト教に改宗していった。その一方でたびたびアリウス派、シルミウスのフォティノス、エルウィディウスなど主要な異端の影響を受けた。正統教義を維持したのはサン・ゼノの司教であった。5世紀にはヴェローナは東ローマ帝国のかわりに蛮族の支配者をもつことになった。


中世初期
403年、西ゴート族の王アラリクスはダルマティアからポー平原へ出て、ヴェローナに立てこもった。これはスティリコにより撃退されたが、452年、フン族の王アッチラが50万の軍勢を率いて、破壊を行いながらヴェローナの近くまで来襲した。軍勢の移動は教皇レオ1世と皇帝の使節により説得されて止まった。これにはレオ1世の説得の言葉と多額の貢納金が功を奏したと考えられる。

帝国が東西に分裂した後、476年、ゴート人のオドアケルに西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスは追放された。イタリア王を称したオドアケルはローマ式の統治を行い、社会は安定し、農業と経済に好影響を与えた。しかしオドアケルの統治は東ゴート族の王テオドリックによって終わった。オドアケルはヴェローナを要塞化し、ヴェローナでテオドリックと戦った。しかし敗れてラヴェンナへ敗走、のちに殺害された。

テオドリックはヴェローナに軍隊を集め、自らも好んで滞在した。このためヴェローナは事実上の都の様相を見せた。テオドリックはまたゲルマン人の来寇により破壊されたヴェローナの城壁を修復した。

テオドリックが東ローマ帝国に敗れ、西ゴート王国が滅びるとヴェローナは東ローマ帝国の版図に入ったが、その時期は短く、6世紀半ばに終わった。

ユネスコ世界遺産 ヴェローナ市街(Verona)568年、ランゴバルト族の王アルボイノはヴェローナ、ラヴェンナ、イタリアの他の都市に進攻した。ランゴバルト族は数年の間、街や教会を破壊し、掠奪や殺戮を行ったが、キリスト教に改宗して穏やかな態度を取るように変化した。

774年、シャルルマーニュはヴェローナでランゴバルトの最後の王デジデリウスを破り、ランゴバルト王国を滅ぼした。のちにヴェローナに葬られる、シャルルマーニュの息子ピピンは、ヴェローナに発展の基盤をもたらすことになった。教会に寄進がなされ、記念のためにサンゼノ聖堂が建てられた。カロリング朝の没落はヴェローナの非イタリア人支配の時代の終わりの始まりを告げることになる。

ヴェローナはバイエルン辺境伯、次いでケルンテン辺境伯(ケルンテンは現オーストリア西部)の領地になった。この時期、中世初期イタリアを代表する学者である司教ラテリウスが、たびたび領主代理と市の関係が悪化するたびに登場している。

950年、ヴェローナ辺境伯領が設けられ、サンボニフィチオ家がはじめて史料に現れる。

961年、ドイツとイタリアが一つの王冠のもとに結ばれると、ヴェローナは、サンゼノ修道院長のもと、ドイツ人の王が滞在する唯一のイタリア都市となった。イタリア統治のための議会や協定が数々ヴェローナで行われた。



ユネスコ世界遺産 ヴェローナ市街(Verona)中世盛期からルネサンス
1136年、ヴェローナは都市特許状を得、コムーネとなった。封建時代のヴェローナは寡頭制を取り、幾つかの有力な貴族によって統治されていた。13世紀には、神聖ローマ皇帝フレドリック2世の協力を得て、パドヴァ、ヴィチェンツァ、トレントを征服した。

13世紀以降のローマ教皇と皇帝の争いでは、ヴェローナの支配者は概して皇帝派(ギベリン)についた。ヴェローナの支配者はスカリジェリ家(デッラ・スカラ家)、ヴィスコンティ家、パドヴァのカッラーラ家と変わっていき、ヴェローナの支配層の間には憎しみを帯びた熾烈な闘争があった。その模様はシェイクスピアの戯曲の中にも描かれている。
パドヴァのカッラーラ家はヴェローナの同盟者のひとりであったが、1402年にヴィスコンティが死ぬと、ヴェローナの支配権を手中に納めた。しかし3年後にはカッラーラ家は滅び、ヴェローナとパドヴァの両方を失うことになった。おそらくはカッラーラ家とともに、ヴェローナを蔽った闘争の時代は終わったのであろう。

1405年にヴェローナはヴェネツィアの支配下に入った。ルネサンス期のヴェローナは商業また文化の中心として発展した。この世紀における人口には振幅が激しく、1511年に38,000人だった人口は1512年には25,000人に減少し、1526年には55,000人に上るが、1530年にはペストのため20,000人に減少している。数多くの学校が生まれ、ヨーロッパ規模の文化的な活動が展開された。ヴェネツィアの支配は、ヴェネツィア共和国の終焉まで続いた。


近現代
ナポレオン・ボナパルトがイタリアに進攻し、ヴェネツィア共和国が滅びると、ヴェローナはフランスの支配下におかれることになった。 1797年よりオーストリア領となり、ウィーン体制下でもオーストリアの支配が続いた。1822年にはこの都市で五国同盟の会議が開催され、スペイン立憲革命に対する軍事介入が確認された。(イギリスは反対。)1866年、イタリア王国領となった。


ユネスコ世界遺産 ヴェローナ市街(Verona)施設と名物
中世の町並みにローマ遺跡が残り、円形劇場(アレーナ・ディ・ヴェローナ)で知られている。このアレーナでは毎年7月~9月にかけ野外オペラが上演される。

シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の舞台であり、映画や舞台でおなじみのバルコニーは観光名所となっている。ここは「ジュリエッタの家」と呼ばれており、館内には当時の家具や日用品が展示されている。前庭にはジュリエッタの像もある。

他にはカステルヴェッキオ、スカラ家の廟、ジュリエッタの墓、ローマ劇場、考古学博物館など。


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アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群

アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群

(英名) Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sites
(仏名) Assise, la Basilique de San Francesco et autres sites Franciscains
登録年 2000年



ユネスコ 世界遺産 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sites

アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群(アッシジ、フランチェスコせいどうとかんれんしゅうどうしせつぐんAssisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sites )は、イタリアのアッシジにあるユネスコの世界遺産登録物件名。


概要
アッシジは、イタリア中部のスバジオ山(モンテスバジオ、標高約1,300m)の斜面に広がる人口2万人強の小さな町であるが、フランシスコ会の創立者アッシジのフランチェスコが生まれたことで有名で、カトリック教会の巡礼地として人気がある。また、町の建物は、ここで掘り出される薄いピンク色をした石材からつくられ、町を彩っている。


歴史
アッシジはローマ帝国時代からあった古い都市であった。台地の上に現在の北東部分から西へと伸びる形で街が建設され、当時は長さ約2300mの城壁で囲まれていた。紀元前89年にローマ帝国の自治都市として指定され、政治や経済的な重要地でもあった。紀元前1世紀ごろに建築された「ミネルバ神殿」などの遺構は現在でも残っている。

ローマ帝国時代から11世紀までの間のアッシジの大きな変化を示す遺構は見つかっていないが、11世紀から12世紀にかけて商人たちが、アッシジの渓谷を開拓し、貴族たちなどの手により教会などの建築を行った。このころの建造物にはウンブリアの様式を取り入れたものがある。また人口の増加にともない城砦は、1260と1316年に拡張がなされた。後述するサン・フランチェスコ聖堂やサンタ・キァーラ修道院もこのころ作られた。

14世紀に入り、城壁が再度拡張整備された。14世紀から15世紀にかけてはペルージャとの戦争などにより、アッシジの治安は不安定であった。しかし15世紀後半には、サン・フランチェスコ聖堂前に公共広場が作られた。17世紀から18世紀もアッシジは発展を続け、多くの貴族たちはバロック様式の宮殿を建てた。

1818年、サン・フランチェスコ大聖堂地下より、納骨堂が発掘される。1954年に、保全計画が策定され、アッシジは保全地域に指定された。


主な構造物

ユネスコ 世界遺産 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sitesサン・フランチェスコ聖堂
サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)は、アッシジに生まれ、死後に聖人に列せられたアッシジのフランチェスコの功績をたたえるために建設されたといわれている。1228年に教皇グレゴリウス9世によって建築が始まり、1253年に一応の完成をみたと言われている。また建築に際してはフランチェスコの弟子であったエリアの働きかけが大きかったといわれている。その後、何度も改修が行われて現在の姿になった。

聖堂は、町の北西の斜面の上に建ち、斜面を有効に利用するため建物は上下二段に分かれている。上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式と異なっている。聖堂にはチマブーエ、ジョット、シモーネ・マルティーニなどの画家の手になるフレスコが多数描かれ、上堂内部はルネサンス初期の画家ジョットによる聖人フランチェスコの生涯、28の場面を描いたフレスコ画が、また下堂には『玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコ』がそれぞれ一番の見所である。

1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震で聖堂の建物は大きく損傷してしまったが、ボランティアによる修復工事などにより、2000年にはほぼ元の形にもどった。


ユネスコ 世界遺産 アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群 Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sitesサンタ・キァーラ修道院
サンタ・キァーラ修道院と聖堂サンタ・キァーラ修道院(Basilica di Santa Chiara)は、聖フランチェスコの精神に従った女性キァーラのグループが建てた女子修道院で、1257年に完成した。キァーラは、アッシジの貴族の娘であったが、フランチェスコの教えに賛同してこの世の財産を全てを放棄し、1212年に清貧の精神を生きる女性たちのグループをつくった。これが女子修道会クララ会の始まりである。大聖堂は彼女の死後、13世紀中に建築された。修道院地下にはキァーラの遺骸を収めた部屋がある。ピンクと白の縞模様を特徴としている。  なお、キァーラは日本語表記ではクララとされることもあるようだが、これはドイツ語名であり、クララ会という修道会をさす場合を除き、イタリア人のキァーラ個人に対して使用するのは不適切であろう。


アクセス
ローマやフィレンツェからの鉄道が便利であり、ローマからは2時間程度。また、ローマ、フィレンツェ、ペルージャよりそれぞれ定期バスが走っている。


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ヴィッラ・アドリアーナ

ヴィッラ・アドリアーナ(Villa Adriana)

(英名) Villa Adriana (Tivoli)
(仏名) Villa Adriana (Tivoli)
登録年 1999年


世界遺産 ヴィッラ・アドリアーナ(Villa Adriana) ヴィッラ・アドリアーナ(英語・フランス語・イタリア語:Villa Adriana (Tivoli) )は、イタリアのティヴォリにあるユネスコの世界遺産登録物件。

概要
ティヴォリは、ローマの東約30kmにある丘陵にある街。穏やかな気候と豊かな森に囲まれ、古代ローマ時代から上流階級の保養地であった。

ハドリアヌス帝は、ローマ帝国の広大な帝国の属州を旅した。118年、旅で魅了された風景を再現した別荘の建築をティヴォリで始めた。おおむねの完成をみたのは134年といわれる。ハドリアヌスが死亡後、ローマ皇帝たちがこの別荘を利用することはあまりなかったが、それでも別荘の拡張は続けられた。

以後、廃墟となったが、15世紀ごろから発掘される。発掘には、同じティヴォリにエステ家の別荘の設計を任されていた、ピーロ・リゴーリオなども加わっていた。

現在でもエジプトを模したPecile、やギリシャを模したCanopoなど、それぞれの土地の建物や風景を再現した庭園が残る。別荘の建物の数は30を越え、敷地の面積は、1.2km²に及ぶ。運河や浴場まである。



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パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院

パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院

(英名) Cilento and Vallo di Diano National Park with the Archeological sites of Paestum and Velia, and the Certosa di Padula
(仏名) Parc national du Cilento et du Vallo Diano, avec les sites archéologiques de Paestum et Velia et la Chartreuse de Padula
登録年 1998年


パエストゥム(Paestum) ユネスコ世界遺産 パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院
パエストゥム ネプトゥヌスの神殿パエストゥム (Paestum) は、イタリア南部カンパーニア州サレルノ県カパッチョ=ペストゥムにある古代ギリシア、古代ローマ遺跡。 1998年には、ユネスコ世界遺産に登録された。

パエストゥムとはポセイドニア(Poseidonia)が訛ったもので、イタリア読みでは「ペストゥム」が近い。

ノーヴィ・ヴェーリア(Novi Velia)
ノーヴィ・ヴェーリア(Novi Velia)は、人口2,052人のイタリア共和国カンパニア州サレルノ県のコムーネの一つである。

チレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園 (Parco nazionale del Cilento e Vallo di Diano)
チレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園 (Parco nazionale del Cilento e Vallo di Diano) は、イタリアの国立公園の一つでサレルノ県内の36,000ヘクタールに1991年に設立された。その後拡大され、約180,000ヘクタールとなった。 現在では県南部の、北はセーレ平原から、東と南はバジリカータ州まで、西はティレニア海までに匹敵する。8の山岳共同体と80のコムーネの領域の全てまたは一部が含まれる。 1991年からはUNESCOの世界遺産、1997年からは生物圏保護区となった。

パドゥーラ修道院パドゥーラ修道院 (Certosa di Padula)
パドゥーラ修道院パドゥーラ修道院 (Certosa di Padula) は、「サン・ロレンツォ修道院」(Certosa di San Lorenzo)としても知られている、チレントの公園の端にあるイタリアにある最も大きく有名な修道院のひとつである。「certosa」(チェルトーザ)とはカルトジオ会の修道院を指す。

ユネスコ世界遺産 パエストゥムとヴェリアの古代遺跡群を含むチレントおよびヴァッロ・ディ・ディアーノ国立公園とパドゥーラのカルトジオ修道院

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ウルビーノ歴史地区

ウルビーノ(Urbino)歴史地区

(英名) Historic Centre of Urbino
(仏名) Centre historique d’Urbino
登録年 1998年

ヨーロッパの世界遺産 ウルビーノ(Urbino)歴史地区ウルビーノ(Urbino)は人口15.128人のイタリアの都市。 ペーザロとともにペーザロ・エ・ウルビーノ県の県庁所在地であり、マルケ州の主要都市。


歴史
ローマの目立たない都市 ウルウィヌム・マタウレンセ(マタウルス川沿いの小都市、の意)が重要な戦略上の要地となったのは6世紀のゴートとの戦争においてであった。

538年に街はゴートから東ローマ帝国の将軍ベリサリウスに取り戻された。このことはしばしばビザンチンの歴史家プロコピウスによって述べられる。ピピンがウルビーノを教皇領として献呈したにも関わらず、1200年頃までコムーネは独立自治の伝統を表明していた。

1200年頃、街はモンテフェルトロ近くの貴族の所有に帰した。これらの貴族は直接ウルビーノを支配しようとはしなかったが、市民が彼らを podestà (potestas, 権力の意味)に推挙するように圧力を掛けられた。その例は1213年のボンコンテ・ディ・モンテフェルトロに伺える。その結果、ウルビーノ市民は反乱を起こし、他の自治都市と同盟し、1234年には再び市の支配権を回復した。

ゲルフ(教皇派)とギベリン(皇帝派)の争いにおいては、ホーエンシュタウフェン家の皇帝や教皇と同盟するよりは、個々の家族や都市と同盟することが多かった。13世紀から14世紀にかけては、ウルビーノのモンテフェルトロ家の領主たちは、マルケとロマーニャにおけるギベリン党の指導者であった。

モンテフェルトロ家でもっとも有名なのは、1444年から1482年に在位したフェデリコ・ダ・モンテフェルトロである。傑出した傭兵隊長であったフェデリコは、外交にたけ、また熱烈な芸術と文芸の保護者であった。

ヨーロッパの世界遺産 ウルビーノ(Urbino)歴史地区フェデリコの宮廷ではピエロ・デラ・フランチェスカが遠近法の技法について書き、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニが『建築論』(Trattato d architettura)を著した。またラファエロ・サンティの父ジョヴァンニ・サンティが文人として活躍した。フェデリコの死後は息子のグイドバルド・ダ・モンテフェルトロが跡を継ぐ。

チェーザレ・ボルジャは教皇領を回復するためウルビーノを攻撃し、グイドバルドと妃のエリザベッタ・ゴンザーガは亡命するが、チェーザレの失脚後、ユリウス2世の支援を受けてグイドバルドが復帰する。

再びウルビーノの宮廷文化が栄える。この時期のウルビーノ宮廷はバルダサーレ・カスティリオーネ(1478-1529年)の『宮廷人』に描写され、宮廷人の理想像として伝えられた。この書はイギリスなどで紳士の理想像とも解釈され、第1次世界大戦のころまでヨーロッパに影響を及ぼした。

グイドバルドの死後は養子のフランチェスコ・マリーア(ユリウス2世の一族デッラ・ローヴェレ家出身)が跡を継ぐ。メディチ家出身の教皇レオ10世はウルビーノを攻撃し、教皇の甥・ロレンツォ(ロレンツォ2世・デ・メディチ)をウルビーノ公にする。

1519年にロレンツォが早世し、レオ10世も1521年に急逝したため、フランチェスコが復帰し、ウルビーノは教皇領の中のデッラ・ローヴェレ家の所領として残ることになった。

1626年ウルバヌス8世はウルビーノ公爵領を教皇領に組み入れた。後継ぎを暗殺されたデッラ・ローヴェレは隠棲するに当り領地を教皇への贈り物としたのである。ウルビーノはウルビーノ大司教の統治するところとなった。

1657年、ウルビーノの図書館の蔵書はローマへ移され、ヴァティカン図書館に加えられた。以後のウルビーノの歴史は教皇領の歴史の一部となり、1870年以後は、イタリア王国を経てイタリア共和国の歴史の一部となる。


ヨーロッパの世界遺産 ウルビーノ(Urbino)歴史地区

観光
旧市街は山間にあり、城壁で囲まれた小さな街である。

ドゥカーレ宮殿 -  1444年フェデリコ公が建て始めた宮殿。現在は国立マルケ美術館として一般公開されており、ラファエロの「黙っている女」、ピエロ・デラ・フランチェスカの「セニガリアの聖母」「キリストの鞭刑」など、ルネッサンス絵画の傑作が集まる。地下には昔の台所や公爵の風呂跡もある。目を見張るほど美しい中庭もある。

ラファエロの生家 - ラファエロが14歳まで過ごした。フレスコ画の代表作「聖母子像」がある。

サン・ジョヴァンニ礼拝堂 - 「十字架磔刑図」や「聖ジョヴァンニの生涯」などサリンベーニ兄弟の後期ゴシック様式のフレスコ画で有名。



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アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ

(英名) Archaeological Area and the Patriarchal Basilica of Aquileia
(仏名) Zone archéologique et la basilique patriarcale d’Aquilée
登録年 1998年


アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカは、イタリアの世界遺産の一つである。

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ Archaeological Area and the Patriarchal Basilica of Aquileiaアクイレイア大聖堂
アクイレイア大聖堂は、キリスト教社会にとって最重要級の建築物である。陸屋根のバシリカ式聖堂は、それ以前の聖堂の敷地の上に、総大司教ポッポーネ(Poppone)が1031年に建てたものであり、1379年ごろに総大司教マルカド(Marquad)によってゴシック様式に改修された。

ロマネスク様式とゴシック様式のファサードは、柱廊玄関で、「異教徒の聖堂」(Church of the Pagans)や5世紀の洗礼堂の遺跡と繋がっている。内部は1つの身廊と2つの側廊からなり、4世紀以来のモザイク模様の敷石が目を惹く。天井は1526年の木造である。後陣の区画にある聖ペトロ礼拝堂(4世紀)、後陣それ自体(11世紀)、クリプト(12世紀)などで、様々な時代のフレスコ画も見る事ができる。クリプトは「フレスコ画のクリプト」とも呼ばれ、アクイレイアにおけるキリスト教共同体の起源や、アクイレイア初代主教ヘルマゴラス(St. Hermagoras)の物語が、ぐるっと取り巻くように描かれている。

外部には、9世紀の鐘楼と後陣の後ろ側に、第一次世界大戦で亡くなった10人の無名兵士の「戦没者の墓」がたっている。


アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ Archaeological Area and the Patriarchal Basilica of Aquileia

アクイレイアの遺跡地域と総大司教座聖堂のバシリカ Archaeological Area and the Patriarchal Basilica of Aquileia


古代遺跡
アクイレイアの古代建造物群は、何世紀にも渡って採石場に使われてきた。その為、地上には古代ローマ時代の建造物は一つも残っていないが、発掘の結果、一つの街路と北西側の市壁が発見された。加えて、市内の国立考古学博物館には、2000点以上の碑文、像、その他地元で生産されたガラスなどの遺物や、貨幣などが収蔵されている。

発掘が終わっておらずその全貌は詳らかではないが、アクイレイアは古代ローマ最大の都市であると考えられている。




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』






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スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ

スー・ヌラージ・ディ・バルーミニ
Su Nuraxi di Barumini, Sardinia


(英名) Su Nuraxi di Barumini
(仏名) Su Nuraxi de Barumini
登録年 1997年


スー・ヌラージ・ディ・バルーミニSu Nuraxi di Barumini, SardiniaSu Nuraxiはサルジニア島バルーミニBaruminiの重要なヌラーゲ (nuraghe) 遺跡の一つである。


ヌラーゲ (nuraghe) の建造物は基礎はなく、大きな石を円すい状の塔のような形状に積み上げて作られている。紀元前2000年より前から、カルタゴに征服された紀元前550年頃まで作られていたと見られる。20000ほどのヌラーゲが作られたと見られ、現在では7000から8000ほど残っている。

1997年にスー・ヌラージ・ディ・バルーミニとしてユネスコリストの世界遺産(文化遺産)に登録された。



スー・ヌラージ・ディ・バルーミニSu Nuraxi di Barumini, Sardinia

スー・ヌラージ・ディ・バルーミニSu Nuraxi di Barumini, Sardinia








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