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ヨーロッパの世界遺産 World Heritageを勉強中

2008年09月のアーカイブ

カステル・デル・モンテ(Castel del monte)

カステル・デル・モンテ(Castel del monte)
(英名) Castel del Monte
(仏名) Castel del Monte
登録年 1996年

カステル・デル・モンテ(Castel del monte)カステル・デル・モンテ(Castel del monte)はイタリア南部プーリア州アンドリアにありサンタ・マリア・デル・モンテの近くに位置する。

イタリア語で、「カステル」が城、「モンテ」が山で「山の城」を意味する。このことからモンテ城、デルモンテ城とも和訳されている。

丘の上にぽつんとたつ美しい城で八角形を象徴的に取り入れており、全体が八角柱なのはもちろんのこと、各角には八角形の小塔がそびえ、中心部にはやはり八角形の中庭がある。

イタリアのユネスコ・世界遺産(文化遺産)の一つになっていて、1ユーロセント硬貨の裏面にもなっている。

この城は軍事上でも居城でもなく別荘または客をもてなすために使用されたと考えられている。


歴史
1240年頃、シチリア王フェデリーコ1世(シチリア王としては1世だが、神聖ローマ皇帝としてフリードリヒ2世またはフェデリーコ2世として有名)によって建てられた。

その後長い間放置され1876年にイタリア国家の所有となり1928年から修復が始まった。1996年にはユネスコの世界遺産に登録された。


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フェラーラ

フェラーラFerrara

(英名) Ferrara, City of the Renaissance, and its Po Delta
(仏名) Ferrare, ville de la Renaissance, et son delta du Pô
登録年 1995年


フェラーラFerraraフェラーラ (Ferrara) は、人口約13万人のイタリア共和国エミリア=ロマーニャ州の街で、フェラーラ県の県都である。

ポー川の支流ヴォラーノ川流域にあるフェラーラは14世紀、エステ家によって整備された。ルネサンス期に文化の中心地の一つとして栄えたが、エステ家は1598年、フェラーラから追放され、フェラーラは教皇領に編入される。

歴史
フェラーラの発祥は定かでない。一部が支持する古代のフォルム・アリエニ(Forum Alieni)の場所を占めていないようだ。おそらくポー川河口の潟の住民らが移住してきたものだろう。

そこには2つの初期定住地があった。一つには聖堂があった。もう一つはカストルム・ビザンティノ(castrum bizantino)といい、対岸のサン・ピエトロ地区になった。フェラーラが最初に記録に現れるのは、7世紀にラヴェンナ総督府の一部となってからである。

8世紀にはカール大帝に征服され教皇国家の一部となった。984年にはカノッサ・モデナ伯のテダルド・ディ・カノッサ(マティルデ・ディ・カノッサの祖父)に封された。のちには自治都市となり、1101年にはマティルデ・ディ・カノッサ軍に包囲されている。この時、主に数家ある豪族(アデラルディ家など)に支配されていた。


フェラーラFerraraエステ家
1146年、アデラルディ家最後の主グリエルモ2世アデラルディが死ぬと、その財産は姪マルケセッラの夫オビッツォ1世デステへと継承された。その後、新たに入ってきたエステ家と地元貴族らの軋轢が表面化する。

オビッツォ2世デステが1264年に民衆の支持を得て、フェラーラを正式に自身のシニョリーアとした。1289年にはモデナのシニョーリに選ばれ、翌1290年にはレッジョ領主にもなった。

1393年にフェラーラ侯となったニッコロ3世デステはローマ教皇に重用された。特にエウゲニウス4世はフェラーラで公会議を開催した。

ニッコロ3世の子ボルソ・デステは1452年に、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、帝国封土としてボルソをモデナとレッジョの公とした。1471年、ボルソは教皇パウルス2世によってフェラーラ公とされ、フェラーラ公国が成立した。エルコレ1世・デステはヴェネツィア共和国との戦いに参加し、フェラーラをさらに繁栄させた。

エルコレ1世は、メディチ家以後の15世紀後半から16世紀前半にかけての芸術後援者の一人であり、フェラーラは特に音楽で名声高い文化都市となった。フェラーラへヨーロッパ各国から音楽家が集まってきた。

ジョスカン・デ・プレは宮廷で働き、ヤーコプ・オブレヒトは2度フェラーラを訪問した。

アントワーヌ・ブリュメルは1505年以後、宮廷第一の音楽家であった。エルコレ1世の子アルフォンソ1世・デステも同様に音楽家を保護した。彼は器楽曲を好んだので、フェラーラではリュートが盛んになった。

アルフォンソ1世はボルジア家のルクレツィアを妻に迎え、ヴェネツィアとの戦いを続行しこれに勝利した。1509年に彼は教皇ユリウス2世から破門されるが、1512年にラヴェンナ包囲戦に勝利している。エルコレ2世・デステはフランス王女ルネと結婚、彼の時代もさらに繁栄が続いた。

1559年に公位についたアルフォンソ2世・デステは、トルクアート・タッソ、哲学者チェーザレ・クレモニーニの後援者として知られる。

フェラーラFerrara彼はフェラーラの地位を最高に高めた人物であったが、3度の結婚で嫡子を残すことができず、1597年に教皇クレメンス8世によってコマッキオと同様に後継者不在の封土を返還要求されることになる。

庶系のフェラーラ公チェーザレ・デステを教皇と皇帝ルドルフ2世は認めず、1598年にフェラーラ公国は教皇領となった。

1796年フランスに占領され、チスパダーナ共和国の一部となり、翌年にはチザルピーナ共和国となった。フランス撤退後は教皇領に戻り、1859年にサルデーニャ王国に併合された。


みどころ

フェラーラは現在も、15世紀から16世紀にかけつくられた9km以上の市壁に囲まれている。歴史地区(特に、15世紀にエルコレ1世・デステが建設させた北地区)には、初期ルネサンス様式のテラコッタ装飾が施された宮殿・邸宅が多い。

フェラーラFerraraエステンセ城(Castello Estense)
市中心部にある城。堀に囲まれた、4つの塔を持つ煉瓦の建物。1385年から建てられ、16世紀に補修された。

サン・ジョルジョ大聖堂(Cattedrale di San Giorgio (Ferrara))
フェラーラ大聖堂とも。12世紀に建てられたロマネスク様式の聖堂。コムナーレ宮殿とエステンセ城の近くにある。

シファノイア宮殿(Palazzo Schifanoia)
アルベルト・デステが建てた14世紀の宮殿。エステ家がフェラーラを離れてから、所有者が幾度か変わり、オーストリア帝国軍の兵舎やタバコ工場にされたこともある。20世紀に入ってコムーネの所有となり、現在は美術館となっている。

ムニチパーレ宮殿(Palazzo Municipale (Ferrara))
13世紀にエステ家が建てた。低階部分はロマネスク様式。内部は、18世紀にバロック様式で修繕された。ルネサンス様式のカンパニエーレは15世紀に加えられたもの。

コルプス・ドミニ修道院(Monastero del Corpus Domini)
エステ家の菩提寺。エルコレ1世・デステ、アルフォンソ1世・デステ、ルクレツィア・ボルジアの墓がある。

フェラーラFerraraディアマンティ宮殿(Palazzo dei Diamanti)
エルコレ1世の弟シギスムンドによって15世紀後半から建てられた。8500個の白大理石をダイアモンドに見立てたことから、この名がついた。現在はフェラーラ国立美術館が入っており、フェラーラ派の絵画を多く所蔵している。

フェラーラ大学(Università degli Studi di Ferrara)
創立は1391年3月4日と歴史ある大学。教皇ボニファティウス9世の認可を得てアルベルト・デステがつくった。最初は法学、芸術、神学の3コースのみだった。コペルニクス、ジローラモ・サヴォナローラが学んだ。現在8学部を持つ。

シナゴーグとユダヤ博物館
サン・ジョルジョ大聖堂とエステンセ城近くにある。この建物が建つ部分は、1627年から1859年までゲットーの一部であった。


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クレスピ・ダッダ

クレスピ・ダッダ

(英名) Crespi d'Adda
(仏名) Crespi d'Adda
登録年 1995年

クレスピ・ダッダCrespi d'Addaクレスピ・ダッダ(Crespi d'Adda)はイタリア共和国ロンバルディア州ベルガモ県カプリアーテ・サン・ジェルヴァージオというコムーネにある、労働者のための町の名前である。

19世紀にクリストフォロ・ベニーニョ・クレスピにより労働者のための理想郷としてアッダ川とブレンブロ川が合流する三角地帯に建設され、1995年に世界遺産に登録された。

クレスピ・ダッダCrespi d'Adda

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ナポリ歴史地区

ナポリ歴史地区

(英名) Historic Centre of Naples
(仏名) Centre historique de Naples
登録年 1995年


ナポリ歴史地区 Historic Centre of Naplesナポリ歴史地区(なぽりれきしちくHistoric Centre of Naples)は、イタリアのナポリのユネスコ、世界遺産の登録物件名。

概要
ナポリの起源は紀元前470年頃にギリシアの植民都市として建設されたことにさかのぼる。当時の町の名前は新しい都市という意味でネアポリスと呼ばれ、碁盤の目のように整然とした都市計画のもとに整備されていたと考えられている。紀元前4世紀頃に古代ローマの支配下に入る。62年と79年に地震が起こり、深刻なダメージをナポリにあたえたが、復興をとげた。

11世紀にノルマン人が進入しナポリを支配し、その後はホーエンシュタウフェンが支配。13世紀に入ってアンジュ家がこの地に移り、ナポリ王国を興し、ナポリは繁栄を迎える。16世紀前半にアンジュ家が衰えると、ナポリはスペインの支配下に入った。

19世紀に入り、ナポレオン時代が終わるとブルボン家による支配を受けた。1860年にイタリア王国に編入、その後は他の都市と比べて近代化が遅れ衰退した。


主な建築物

王宮
スペイン統治時代の17世紀初頭に、建築家ドメニコ・フォンターナの設計により建築された。以後、ブルボン家を始めとするナポリ王の宮殿(Palazzo Reale)として使用された。


ナポリ歴史地区 Historic Centre of Naples卵城
卵城 (Castel dell'Ovo) は、サンタルチア港の小島に突出して作られた要塞である。もともとはローマ帝国にルクルスが建築した豪華な別荘であった。

11世紀にノルマン人がナポリを支配すると、要塞として機能を拡大する。ノルマン人がこの城を築くにあたって、基礎の中に卵を埋め込み、「卵が割れるとき、城はおろか、ナポリにまで危機が迫るだろう」と呪文をかけたことが城の名前の由来と言われている。卵城は、アンジュ家統治時代には税やを納めるための倉庫に使われた。

卵城の屋上からは、ナポリの街並み、サンタルチア港、遠くにヴェスヴィオ火山までが見渡せる。


ナポリ歴史地区 Historic Centre of Naplesヌオヴォ城
ヌオヴォ城(Castel Nuovo)は、卵城と区別するため新しい(Nuovo)城と命名された。別名アンジュ砦ともよばれる。

13世紀にアンジュ家出身のナポリ王カルロス1世が、フランスのアンジェ城をモデルに建築したといわれている。アンジュ家支配末期に度重なる戦闘の舞台となり大きく破損するが、15世紀から18世紀にかけて改築されて、現在に残る。正面に3つの円筒形の塔を持ち、2つの塔の間に凱旋門が建っている。


サン・テルモ城
サン・テルモ城 (Castel Sant'Elmo) はナポリの町を見下ろすヴォメロの丘の上に建つ。アンジュ家により1275年頃、初期の城郭が建築され、その後、アンジュ家により拡張された。16世紀には、スペイン人がナポリを支配するところになり、星型の近代城郭へと改修された。


カテドラル(大聖堂)
14世紀初めに完成。正面は19世紀にゴシック様式に改装された。


サン・マルティーノ修道院
サン・テルモ城の近く、やはりナポリの町を見下ろすヴォメロの丘の上に建つ。建築家ファンザーゴの回廊など、豪華な装飾が残る。


ナポリ歴史地区 Historic Centre of Naplesサンタ・キアラ修道院
アンジュ家の手により、1310年頃に着工したゴシック様式の建物である。第二次世界大戦中の爆撃で破壊されるが、戦後に再建された。


アクセス
ローマからバスまたは鉄道で2時間半から3時間ほど。



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シエーナ歴史地区

シエーナ歴史地区

(英名) Historic Centre of Siena
(仏名) Centre historique de Sienne
登録年 1995年

シエーナ歴史地区(シエーナれきしちくHistoric Centre of Siena)は、イタリアの古都シエーナにあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は1995年。中世の町並みが残され、国際ゴシック、ルネサンス、バロックの芸術作品を見ることができる。


シエーナ歴史地区 Historic Centre of Siena概要
シエーナの起源は明確にはわかっておらず、古いローマの都市であるとする伝説もあるが、根拠はない。

シエーナが歴史の表舞台に立つのは、東ゴート王国が滅び、東ローマ帝国による短い統治があった後、イタリア半島北部にランゴバルト王国が成立してからである。

イタリア半島の統治が困難になったとは言え、アドリア海での東ローマ帝国の勢力は依然として大きく、ランゴバルト王国は物資の運搬路をフランス街道に移さざるを得なかった。シエーナはこの街道の中継基地として、主に金融業によって発展した。

西ヨーロッパ全体の経済活動が活発になり、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった港湾都市は、貿易によって巨万の富を得るようになった。シエーナも、これらの都市との金融取引によって潤沢な資金を得、13世紀までに西ヨーロッパ最大の金融街として栄えた。

11世紀まで、現在のカステルヴェッキオ一帯にしか広がっていなかった市街地は、13世紀中期には現在の市街地にほぼ匹敵する大きさにまで拡張している。他の中世イタリアの都市と同じく、シエーナも12世紀にはコムーネが組織され、都市機能は自治共同体によって運営された。

金融業によって急速に力を得たシエーナは、やはり金融業によって勃興したフィレンツェとトスカーナの覇権をめぐって衝突することになる。

これにグエルフィ(教皇党)とギッベリーニ(皇帝党)という政治的思惑もからみ、13世紀になると、熾烈な武力衝突を繰り返した。

1260年のモンタペルティの戦いでシエーナはフィレンツェを破り、トスカーナの覇権を握ったが、わずか5年の後、ローマ教皇の誘いに応じて南下したフランス王国がグエルフィ同盟を結成、ギッベリーニ(皇帝派)を標榜するシエーナは孤立した。

1269年、シエーナはフィレンツェとフランスの連合軍に決定的敗北を喫し、次第にシエーナの経済活動はフィレンツェに遅れをとりはじめた。

フィレンツェに覇権を奪われたとは言え、ノーヴェ体制を有するシエーナの経済活動はなお盛んであった。シエーナの芸術活動が最も盛んになるのは、この13世紀末から14世紀中期までの時期である。

しかし、1350年頃からはじまり、一説では人口の半分が犠牲になったとされる黒死病の流行により、シエーナの全ての活動は停止する。以後、芸術活動は続けられるものの、そのきらめきを取り戻すことはなかった。

主な建築物
シエーナ歴史地区 Historic Centre of Sienaシエナ大聖堂
シエーナ大聖堂(-だいせいどう、Duomo di Siena)は、イタリアのシエーナにあるキリスト教・カトリックの教会堂。シエーナの司教座聖堂である。大聖堂、司教館、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ピッコロミーニ図書館、そして未完となった拡張工事部分から成る。世界遺産シエーナ歴史地区の中心を飾り、イタリアで最も美しいゴシック様式のファサードを持つと言われる。

パラッツォ・プッブリコ
カンポ広場




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ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ

ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ

(英名) City of Vicenza and the Palladian Villas of the Veneto
(仏名) Ville de Vicence et les villas de Palladio en Vénétie
登録年 1994年


ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ City of Vicenza and the Palladian Villas of the Veneto ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ(ヴィチェンツァしがいとヴェネトちほうのパッラーディオのヴィッラ)は、イタリアの都市ヴィチェンツァとヴェネト州一帯にあるユネスコの世界遺産登録物件名。

登録は1994年。1996年には拡張され、建築物が追加された。15世紀に活躍した建築家アンドレーア・パッラーディオの設計したパラッツォおよびヴィッラを対象とする。


概説
ヴィチェンツァは、紀元前2世紀から紀元前1世紀に建設されたローマの都市ウィケティアが起源となっている。他の北イタリアの都市と同じように、13世紀にはコムーネを組織し、近隣の都市国家と闘争を繰り広げたが、15世紀にヴェネツィア共和国の統治下におかれたことで、平和と経済的繁栄がもたらされ、卓越した芸術活動を生み出すことになった。

今日、世界遺産に登録されている物件は、建築家アンドレーア・パッラーディオと彼の弟子ヴィンチェンツォ・スカモッツィの手によるものである。

パッラーディオはイタリアの偉大な建築家のひとりで、彼の作品が多く残るヴィチェンツァは「パッラーディオの街」と呼ばれる。パッラーディオはルネサンス期で最初の職業建築家(つまり他の芸術活動は行わなかった)であり、設計した建築物や著作に由来するスタイルは、後にパッラーディオ主義と呼ばれ、ヴェネツィア共和国をはじめ、ドイツ、ロシア、そしてイギリス、1760年代以後にはアメリカ合衆国にまで広がりを見せた。

このように、一個人の名を冠する建築様式はほかになく、彼がいかに独創性豊かで一貫したスタイルを保ち続けたかが分かる。

古代遺跡に関する知識と、ドナト・ブラマンテやヤーコポ・サンソヴィーノ、ミケランジェロ・ブオナローティ、ジュリオ・ロマーノ、そしてヴェネツィアのビザンティン建築からの影響を受けたパッラーディオのスタイルは、いくぶんマニエリスム的な部分もあるためか、後に新古典主義の理論家・建築家らによって純粋でないと評された。

しかし、ゲーテなどは、イタリア紀行の途中でヴィチェンツァの町並みに触れ、パッラーディオの能力を高く評価している。

パッラーディオは公共建築や宗教建築の設計も行ったが、終始一貫して取り組んだ建築がヴィッラであり、その作品の数も多い。そして後世、20世紀に至るまで影響を与え続けたのも、このヴィッラであった。これらの事柄を考慮し、1994年、ヴェネト地方に点在するパッラーディオ設計のヴィッラが世界遺産として登録された。


主な建築物

ヴィチェンツァ市街とヴェネト地方のパッラーディオのヴィッラ City of Vicenza and the Palladian Villas of the Veneto ヴィチェンツァ市街にあるもの
パラッツォ・バルバラーノ・ダ・ポルト
パラッツォ・チヴェーナ・トリッシノ
パラッツォ・ティエーネ・ディ・スカンディアーノ
パラッツォ・ポルト
パラッツォ・デッラ・ラジョーネ 通称「バシリカ・パッラーディアーナ」
ロッジア・デル・カピタニアート
パラッツォ・ヴァルマラーナ
パラッツォ・ポルト・ブレガンツェ
パラッツォ・キエリカーティ(現在キエリカーティ絵画館)
テアトロ・オリンピコ
パラッツォ・ダ・モンテ
パラッツォ・スキオ
カーサ・コゴッロ

ヴェネト地方にあるもの
ヴィッラ・アルメリコ 「ラ・ロトンダ」(ヴィチェンツァ近郊)
ヴィッラ・ガッゾッティ
ヴィッラ・アンガラーノ付属屋
ヴィッラ・カルドーニョ
ヴィッラ・キエリカーティ
ヴィッラ・フォルニ
ヴィッラ・ゴーディ
ヴィッラ・ピザーニ
ヴィッラ・ポヤーナ
ヴィッラ・サラチェーノ
ヴィッラ・ティエーネ付属屋
ヴィッラ・バルバロ


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マテーラの洞窟住居

マテーラの洞窟住居

(英名) The Sassi and the Park of the Rupestrian Churches of Matera
(仏名) Les Sassi et le parc des églises rupestres de Matera
登録年 1993年

マテーラの洞窟住居(どうくつじゅうきょ)は、イタリアのバジリカータ州の町マテーラにあるユネスコの世界遺産登録物件。

マテーラの洞窟住居 The Sassi and the Park of the Rupestrian Churches of Matera概要

サッシ
サッシ(岩壁を意味するサッソの複数形)とは、洞窟住居のことである。マテーラのあるグラヴィナ渓谷は石灰岩を侵食により造成され、渓谷にはこのサッシが何層にも重なって存在している。このサッシがいつ頃から作られたかは不明だが、8世紀から13世紀にかけて東方からの修道僧が住み着き、130以上の洞窟住居を構えていたといわれている。マテーラ周囲からは、旧石器時代の出土品も発見されているため、かなり古くから人々が住んでいたと考えられている。

15世紀から16世紀には、オスマントルコに追われたアルバニア人やセルビア人などが移住。当時マテーラを支配していたアランゴーナ家は、この地域をジャンカルロ・トラマンターノ伯爵に売り渡す。トラマンターノ伯爵は、マテーラに重税を課すが、住民はこれに反発し伯爵を惨殺する。

その後、マテーラはその後1663年にバジリカータの州都となり繁栄期を迎える。しかし1806年にポテンツァに州都が移され、その後の経済逼迫の影響もあり衰退していく。

その後長らく小作農民の住居であったが、サッシは南イタリアの貧しさの象徴的な見方がなされてしまう。その評価を気にしたのかイタリア政府は、第二次世界大戦が終わった1952年から住民は移住を命じられ廃墟となった。現在は一部修復してサッシに暮らす人も存在するようになった。また、サッシを利用したホテルも開業した。


ドゥオモ
サッシの中心には、13世紀に建築された石造のドゥオモ(大聖堂)がある。


旧石器時代の遺跡
世界遺産の登録外であるが、グラヴィナ渓谷を挟んでマテーラの反対側には、ムルジェッキアという旧石器時代の集落跡が発見されている。


アクセス
ローマからマテーラ行きの長距離バスが出ている。所要時間約6時間。またナポリからもマテーラ行きのバスがある。 新市街から見下ろせる位置にある。











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サン・ジミニャーノ歴史地区

サン・ジミニャーノ歴史地区

(英名) Historic Centre of San Gimignano
(仏名) Centre historique de San Gimignano
登録年 1990年


サン・ジミニャーノ歴史地区はイタリアのコムーネ、サン・ジミニャーノにある中世の街並を残す地区。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。標高324m の丘の上にある塔の街として知られる。


サン・ジミニャーノ歴史地区 Historic Centre of San Gimignano概要
サン・ジミニャーノはローマ近くフィレンツェから 50km 程南に位置している。街の名前は398年になくなったモデナの司教、聖ジミニャーノからとられた。

町の発展はフランチジェーナ街道の建設に始まる。地理的にフランチジェーナ街道とピサーナ街道の合流地点に位置する流通の主要拠点であり、また、聖ジミニャーノの遺物「指と指輪」が安置された聖堂への巡礼者が多く訪れる街として繁栄した。

街は城壁で取り囲まれ、街そのものが裕福であったため芸術家が多く住まい、シエナ派の芸術家を多く輩出している。

1150年にコムーネとして成立。街には以前から防衛のための塔が建設されており、13世紀に入り街が繁栄したことで、貴族の権力の象徴としての塔建設が次々と行われ、50mを超える物を含む72もの塔が街内に建設された。

教皇派と皇帝派に分かれて、より高く、美しい塔を建てることを貴族同士競い合った。当時は防衛や監視のためイタリアの他の都市でもこういった塔の建設が行われていた。

しかしその後、ペストの流行と内部での権力争いによって町が衰退し、1353年にフィレンツェ共和国に組み入れられる。

一時はフィレンツェとシエナの前線基地とされたが1555年にシエナがフィレンツェに降伏し、さらフランチジェーナ街道が利用されなくなったことで交通の拠点からも離れ、サン・ジミニャーノは廃れた街となった。

他の多くの街では塔は不要なものとして解体され、街の再開発が行われたが、サン・ジミニャーノは経済的な余裕もなく、寂れていたため戦争などに巻き込まれることもなく、塔も町並みも13世紀から14世紀の状態を良く残している。

現在残っている塔の数は14。街並、城壁を含めて地区として世界遺産に登録された。地区内には12世紀 - 14世紀頃に建設された建築物が林立している。

サン・ジミニャーノ歴史地区 Historic Centre of San Gimignano主な文化遺産

サン・ジョバンニ門
1262年に建造された石組の中世城塞の門。石落としも現存。一般車は通行禁止。門は全部で5つあり、他はサン・マッテオ門、クェルレチェッキーノ門、フォンティ門、サン・イアコポ門という。

ドゥオーモ広場
残っている塔のうち7つに囲まれた広場。ドゥオーモに面している街の中心地。

ドゥオーモ
1148年、ローマ教皇エウゲニウス3世が建立。シエナ学派による多数の美術品が内部にある。主聖堂と聖女フィーナの祭壇の2つの部分からなる。聖女フィーナの祭壇は15世紀にあとづけされた物でジュリアーノ・ダ・マイアーノ設計。正面は19世紀に改装されている。以下に内部の美術品を記す。
『旧約聖書』- 左面壁画 バルトロ・ディ・フレーディ (Bartolo di Fredi) 画
『新約聖書より(キリストの生涯)』- 右面壁画 バルナ・ダ・シエナ (Barna da Siena) 画
『受胎告知』、『大天使ガブリエル』 - 木像 ヤコポ・デッラ・クェルチャ (Jacopo della Querci)
『最後の審判』 - 天井画 タッデーオ・ディ・バルトーロ (Taddeo di Bartolo) 画
『聖セバスティアーノの殉教』 - 天井画 ベノッツォ・ゴッツォーリ (Benozzo Gozzoli) 画
『聖女フィーナに死の告知をする聖グレゴリウス』 、『聖女フィーナの葬儀』- 聖女フィーナの祭壇壁画 ドメニコ・ギルランダイオ画(右手告知、左手葬儀)

チステルナ広場
13世紀に掘られた井戸を中心に広がる三角形の広場。

市立美術館
ポポロ宮殿とも呼ぶ。1288年建築、1323年に増築されたれた市庁舎。現在残っている中で最も高い塔 (54m) を持つ建物でもある。内部が美術館となっており、ゴシック、後のフィレンツェ時代の絵画を多数収める。
『ボルドーネの聖母』 コッポ・ディ・マルコヴァルト画
『十字架像』コッポ・ディ・マルコヴァルド画
『玉座の聖母子と諸聖人』ベノッツォ・ゴッツォリ画
『聖母と聖人』ピントゥリッキオ画
『受胎告知』フィリッピーノ・リッピ画
など多くの作品を収蔵。

サンタゴスティーノ教会
13世紀建築の教会。
・大理石製の祭壇 ベネディット・ダ・マイアーノ作
・『ニコラ』、『ルチア』、『ジミニャーノ』フレスコ セバスティアーノ・マイナルディ画
・『聖アウグスティヌスの生涯』ベノッツォ・ゴッツォリ画

ロッカ
街の城砦跡。
フィレンツェに組み込まれた後、コジモ1世が取り壊したが後に再建されて公園となっている。

交通
シエナおよびフィレンツェよりバスで約1時間
フィレンツェから鉄道でポッジポンシへ移動、そこからバスで20分。

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ピサのドゥオモ広場

ピサのドゥオモ広場 (Piazza del Duomo)

(英名) Piazza del Duomo, Pisa
(仏名) Piazza del Duomo a Pise
登録年 1987年

ピサのドゥオモ広場(-ひろば、Piazza del Duomo)は、イタリアにある世界遺産の物件名である。

ピサのドゥオモ広場 Piazza del Duomo概要
世界遺産に登録されたのは、1987年。ピサのはずれにあるドゥオモ広場に建つ、洗礼堂、大聖堂、鐘楼、墓所回廊の4つが印象的である。ピサのこのころの繁栄を象徴した建物群である。特に鐘楼はピサの斜塔として有名。

ピサのドゥオモ広場は、ピアッツァ・デイ・ミラーコリ (Piazza dei Miracoli) やカンポ・デイ・ミラーコリ (Campo dei Miracoli) とも呼ばれ、奇跡の広場という意味である。


主な構造物

鐘楼(ピサの斜塔)
円筒形の8階建てで、階段は296段(※294段という説も)ある。高さは55m。円筒形の外径は約20m、内径は約4.5m。建物全体の総重量は、14,453t(推定)。

1173年8月9日に着工、幾度もの工事中断、1372年に完成、と非常に長い期間に渡って建築工事が行われた。工事が長引いた原因は、着工直後から始まった塔の傾きである。このため、塔は本来100m以上の高さを予定されていたが、約半分の高さでの完成を余儀なくされたといわれている。

アルノ川が運んできた砂地が含まれていたため、建物の基礎を深く作るには地盤が弱過ぎた事が、傾きが生じた主な原因とされている。塔は現在、中心線から南に向って約4m(1350年の時は1.8m) 、角度にして約5度傾いている。

16世紀に、ガリレオ・ガリレイによる落下の実験が行われたという伝説が残っているが、ガリレオがピサで実験を行った事実は無いとされている。

設計者は未だ分かっておらず、現在論争中。ボンナーノ・ピサーノ説が通説であるが、近年の研究では、ディオティ・サルヴィ説が有力。

近年傾斜の増加が著しくなったため、1990年に一時立ち入り禁止となった。 そして2001年12月、10年間にわたる傾斜防止作業が終了し、一般公開を再開した。


ピサのドゥオモ広場 Piazza del Duomo大聖堂(ドゥオモ)
大聖堂大聖堂(ドゥオモ)は、緑の芝生が生える広場の中央にそびえる。都市国家であったピサが、1063年にパレルモ沖でサラセン艦隊を破ったことを記念して建築を始めたといわれる。

建物の構造は、奥行きが約100m、幅約30mで、上から眺めるとラテン十字の形をしている。内部は、円柱が密に並び、五廊式となっている。

使用された円柱の多くは戦利品として、パレルモの古代遺跡から運ばれたものともいわれ、内装はビサンティン様式の影響も見える。建造物自体はロマネスク建築と考えられている。

建物内部にはピサの人々に愛された、聖ラニエリとハインリッヒ7世の墓がある。

ガリレオのランプは、身廊のほぼ中央に吊り下がっているブロンズ製のランプで、ガリレオがこのランプの揺れをみて振り子の等時性を発見したと伝わっているが、これも事実ではないと考えられている。

説教壇は、14世紀の始め頃に作られた、イタリア・ゴシック様式を代表する彫刻として知られている。


ピサのドゥオモ広場 Piazza del Duomo洗礼堂
洗礼堂洗礼堂は、大聖堂の西側に建っている円筒形の建物。直径約35m。着工は、1152年で完成には200年以上を要した。全体は白い大理石で、建物の下側がロマネスク様式で大聖堂と同じような列柱とアーチで装飾されている。しかし上側はゴシック様式を示している尖塔群で装飾された珍しい建物である。


墓所(カンポサント)
大聖堂の北側にはアーチの連続する回廊付の美しい中庭を持つ墓所がある。回廊の壁には14世紀に描かれたフレスコ画があった。しかしながら、第二次世界大戦での空襲でほとんど消失してしまった。


付属美術館
鐘楼の東側にある。大聖堂や洗礼堂の中にあった彫刻などのオリジナルが保存・展示されている。


アクセス
ローマから鉄道で、3時間から4時間。フィレンツェからは鉄道・バスで1時間程度。ピサ中央駅からドゥオモ広場までは徒歩で約30分程度。



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ヴェネツィアとその潟

ヴェネツィアとその潟

(英名) Venice and its Lagoon
(仏名) Venise et sa lagune
登録年 1987年


ヴェネツィアとその潟 Venice and its Lagoon概要
ヴェネツィアは、5世紀頃、ゲルマン族の進入から逃れるために、当時湿地帯であった場所に街を作ったのが始まりといわれている。

その後、海洋貿易での立国を目指した。十字軍の遠征による権益の拡大、ジェノヴァ共和国との戦争で繁栄は最高潮を迎えた。また、ルネッサンス時代には、ヴェネツィア派と呼ばれる画家を輩出した。

アドリア海の女王とうたわれたヴェネツィアも他のヨーロッパ諸国が地中海貿易に進出するに至った上に、大航海時代が始まり、アメリカ大陸や日本の発見などによって貿易の中心が大西洋や太平洋といった外海に移った事によって衰退に向かう。

18世紀には一年の半分をカーニバルで過ごす歓楽の都と化してしまった。

潟の上になるヴェネツィアは常に治水対策が重要課題であった。近年は、丸太の杭を潟に打ち付けてそれを建物の土台にする工法の最大の欠点(時間が経つにつれ沈下する事を免れない)と、地下水の汲み上げによる地盤沈下が大問題となっている。更にそれに追い討ちを掛けるように地球温暖化による海面上昇により、水没の危機にさらされている。

ヴェネツィアの中心街にある建築物以外にも、ヴェネツィアン・グラス で有名なムラーノ島、レース編みで有名なブラーノ島、島全体が墓所となっているサン・ミケーレ島も世界遺産物件として登録されている。

文化遺産の登録基準をすべて満たしている(他には、敦煌にある莫高窟。また単純な文化遺産としてみた場合、自然遺産との複合では泰山が文化遺産の基準のすべてに加えて自然遺産の条件をひとつ満たしている)。


主な構造物

サン・マルコ広場
サンタ・ルチア駅前からボートでカナル・グランデを下り、アドリア海に出る所にある広場。ヴェネツィアの表玄関で街の中心。ナポレオン・ボナパルトが「世界で最も美しい広場」と評したといわれている。


サン・マルコ大聖堂
ヴェネツィアの代表的な建物。ビザンティン建築の代表的な建物でもある。もともとは、聖人マルコの遺骸を収めるため9世紀頃に建造。11世紀に改築が始まり約400年かけて現在の形になった。

聖堂内はビサンティンとロマネスク様式の混合したモザイクで飾られている。


ヴェネツィアとその潟 Venice and its Lagoonドゥカーレ宮殿
ドゥカーレ宮殿ヴェネツィア共和国時代に総督公邸として使われていた。もともとは要塞であった。しかし火災での炎上などにより何度も改装されて15世紀頃に現在の白の柱とピンクのタイルが印象的なゴシック建築物となった。

内部には歴代のヴェネツィア総督の肖像画など沢山の絵画が飾られている。特に2階の大評議室にあるティントレットの油絵『天国』、ベロネーゼの『ヴェネツィア礼賛』は有名である。

ドゥカーレ宮殿の裁判所と監獄を結ぶ橋は、ため息の橋と呼ばれている。


カナル・グランデの建築群
カナル・グランデ(大運河)は世界でもっとも美しい通りとも呼ばれ、運河の両岸にはロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、バロックと様々な様式の建築が建ち並ぶ。


ヴェネツィアとその潟 Venice and its Lagoonリアルト橋
リアルト橋ヘの字のような形が特徴。長さ48m、幅22mで通路は階段となっている。アントニオ・ダ・ポンテの設計で1591年に完成した。ミケランジェロが設計したという説もある。石造で白い巨象ともいわれた。


フランケッティ美術館
フランケッティ美術館はまたの名をカ・ドーロ(黄金の館)と呼ぶ。マンテーニャの『聖セバスティアヌス』が所蔵されている。


ヴェネツィア郊外の島

ムラーノ島
ベネチアの北東約2kmにあるムラーノ島はヴェネツィアングラスの産地として有名である。ヴェネツィアの主要な輸出品であったガラス工芸品の作成技術を他の国に流出することを恐れたヴェネツィア政府がムラーノ島に職人達を集めたのが始まりといわれる。現在でも100を越える工房があり、見学も可能。


ブラーノ島
ベネチアの北東約9kmにあるブラーノ島はレース織の工房があることで有名である。また島は漁師の島としても有名で、海から自分達の家が判別しやすいようにカラフルなペイントが施されている。


アクセス

鉄道
ユーロスター・イタリアで、ローマからサンタ・ルチア駅まで約4時間半。ミラノからサンタ・ルチア駅までは約2時間40分。

航空
本土のヴェネツィア・テッセラ空港(マルコポーロ国際空港)から水上バス・バス利用。

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フィレンツェ歴史地区

フィレンツェ歴史地区

(英名) Historic Centre of Florence
(仏名) Le Centre Historique de Florence
登録年 1982年


フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florenceフィレンツェ歴史地区(-れきしちく Centro Storico di Firenze it / Historic Centre of Florence en )はイタリアの都市フィレンツェの中心部。ユネスコの世界遺産(文化遺産) に登録されている。歴史的な町並みが広範囲かつ集中的に保存されており、ルネッサンスの芸術、文化を眼前にみることができる。

概要
フィレンツェは屋根のない博物館とも表されるほど、稀有な建築物や彫刻などの芸術作品が残る。もともとフィレンツェはエトルリア人によって創設されローマ殖民都市がおかれた。一時神聖ローマ帝国皇帝支配の時代もあったが、徐々に中小貴族や商人からなる支配体制から発展し、12世紀には事実上の自治都市となった。以後、織物業をはじめ近郊の農産物の出荷地としてしられ、金融業も発展していった。

フィレンツェの歴史はメディチ家抜きには語れない。14世紀には人口12万人を要する都市となるがその頃、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが成功させた銀行業を継いだコジモ・デ・メディチ(コジモ・イル・ヴェッキオ)は、フィレンツェの政治を支配し、学術・芸術を振興した。多くの芸術家を庇護し、プラトン研究のアカデミーや公共図書館を設立するなどし、死後「祖国の父」と称号を贈られた。

コジモの孫のロレンツォ・デ・メディチは早くから英才教育を受け、優れた政治能力を発揮した。自身も詩人であったロレンツォは芸術家らと親しく交わり、学問・芸術を厚く保護を行い、彼の代にルネッサンスは最高潮を迎える。現在でもメディチ家の6つの球をあしらった紋章をあちらこちらで見ることができる。そののちサヴォナローラの独裁などさまざまな政争を経て、16世紀にフィレンツェはトスカーナ大公国となる。

13世紀から16世紀にかけての繁栄の中で残された歴史的建造物は、いまでも大切に保存されフィレンツェ歴史地区をかたちづくっている。ロッジア・デイ・ランツィやポンテ・ヴェッキオは中世商業都市を象徴し、パラッツォ・ヴェッキオ、シニョリーア広場は自治の歴史を思い起こさせる。またウフィツィ美術館はルネッサンス芸術の宝庫、ピッティ宮は大公国時代の華麗な遺産である。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、フィレンツェ全盛期の歴史をみまもってきた。地区全体が歴史遺産として登録された理由はたゆまない都市建設の偉業によってである。


主な構造物

フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
「花の聖母マリア」の意味を持つ大聖堂。イタリアにおけるゴシック建築および初期のルネサンス建築を代表するもので、フィレンツェのシンボルとなっている。

1296年に、アルノルフォ・ディ・カンピオの設計により着工。140年以上の歳月をかけて建設されたため、ゴシック・初期ルネサンス・ネオ・ゴシックの各様式が混在している。石積み建築のドームとしては現在でも世界最大である。

大聖堂の広場をへだてた東側には付属の美術館があり、教会の宝物や、かつて外部をかざっていた美術品がおさめられている。


フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence ヴェッキオ宮殿ヴェッキオ宮殿
14世紀の始めにフィレンツェの政庁舎として建築され、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていた。現在は市庁舎として使用されている。3層の石造建物で塔の高さは94mある。

「500人大広間」の壁画をミケランジェロとダ・ビンチが競作したエピソードで有名(現在の壁画はジョルジョ・ヴァザーリ作)。

宮殿前のシニョリーア広場は、中世のフィレンツェの政治の中心であった。ジロラモ・サヴォナローラが火あぶりの刑に処せられた場所でもある。ミケランジェロのダビデ像が置かれていたが、現在置かれているものはレプリカ。


フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence ウフィツィ美術館ウフィツィ美術館
近代式の美術館としてヨーロッパ最古といわれる。建物はもともと、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に完成したフィレンツェ共和国政府の政庁舎だった。したがって、ウフィツィ(Office)の名がつけられた。

もともと、メディチ家の収集した美術品を保管するため最上階が改装された。メディチ家が、1737年に断絶された後も美術品は残され一般に公開されるようになった。

ウフィツィ美術館の中心には、トリブーナと呼ばれる真珠貝が散りばめられたドーム空間が広がっている。もっとも広い部屋は、ボッティチェッリの間とも呼ばれ、サンドロ・ボッティチェッリの作の『ヴィーナスの誕生』が飾られている。またメディチ家の結婚祝としてボッティチェッリが描いた『春』も所蔵されている。


フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence ピッティ宮殿ピッティ宮殿
アルノ川の南岸に建つピッティ宮殿は、ルカ・ピッティがブルネレスキに依頼して建築し、16世紀半ばにメディチ家が購入し、歴代トスカーナ大公の居館となった。その後、数回の改築を経て18世紀ごろに現在の形となる。現在は、2つの美術館と5つの博物館になり、ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館とは、ヴァザーリの回廊で結ばれている。


ボーボリ庭園
ピッティ宮殿の背後に広がる。コジモ1世が、肺結核の妻の療養のために16世紀半ば造営したといわれている。広さは45,000m²。


フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence サンタ・マリア・ノヴェッラ教会サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
ドミニコ会の修道僧が設計し、14世紀後半に完成したゴシック様式の聖堂である。建物正面は、15世紀半ばにレオン・バッティスタ・アルベルティによる改装を受け、現在の姿になる。ゴシック様式および初期ルネサンス様式で描かれたフレスコ画は特に有名。

内部には現在まで続く世界最古の薬局「サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局」がある。

また、レオナルド・ダ・ビンチが3年間暮らし、モナリザの製作を行った場所としても有名である。



フィレンツェ歴史地区 Historic Centre of Florence サンタ・クローチェ聖堂サンタ・クローチェ聖堂
14世紀後半に完成したゴシック様式の聖堂。建築家アルノルフォ・ディ・カンビオの設計である。世界最大のフランシスコ会の教会。

堂内には、ミケランジェロやガリレオ、作曲家のロッシーニなどの著名なイタリア人の墓が多数あることでも知られている。


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ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂

ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂


(英名) Historic Centre of Rome, the Properties of the Holy See in that City Enjoying Extraterritorial Rights and San Paolo Fuori le Mura
(仏名) Centre historique de Rome, les biens du Saint-Siege situes dans cette ville beneficiant des droits d'extra-territorialite et Saint-Paul-hors-les-Murs
登録年 1980年


ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂 (ろーまれきしちく、きょうこうりょうとさん・ぱおろ・ふおーり・れ・むーらだいせいどう)は、イタリアのローマおよびバチカン市国にあるユネスコの世界遺産の登録物件名。

登録は、1980年。1990年には、アウグストゥスの霊廟、ハドリアヌス帝の霊廟などが拡張登録されている。

ヴェネツィア広場を中心としたエリアが登録されている。

またやはり世界遺産に登録されているバチカン市国 (世界遺産)とも隣接し、こちらと一体となった保全活動が実施されてもいる。

概要
伝説によると、王の命により双子のロムルスとレムスの兄弟はテヴェレ川に流され、そこで狼に拾われて育てられた。そのロムロスがパラティーノの丘にローマを築いたという。実際には、紀元前7世紀ごろにサビニ人、ラテン人がローマを築いた。その後、現在まで都市として機能しつづけており、都市の中の都市とローマが呼ばれる所以である。


建造物

フォロ・ロマーノ
パラティーノの丘とカンピドリオの丘の中間に位置する。フォロとは、広場のこと。ローマ帝国の政治、商業と市民の生活の中心だった場所である。フォロ・ロマーノが本格的に整備されるようになったのは、ユリウス・カエサルの時代で、アウグストゥスがこれを引き継ぎ、カエサルを祭ったユリウス神殿、元老院やバシリカ・ユリアが整備された。


コロッセオ
80年にティトゥス帝が建築。当時はフラウイウスの闘技場と呼ばれていた。コロッセオは長径が188m、短径が156mの楕円形。高さは48.5mの4層構造。収容人数は5万人とも6万人以上ともいわれている。ローマ帝国時代、ここでは血をすわせるため白い砂が撒かれその上で剣闘士同士や、剣闘士と猛獣の戦いが見世物として行われた。時には水を張って模擬海戦も行われたという。

現在は、地上部分が露出している。


コンスタンティヌスの凱旋門
当時副帝であったコンスタンティヌス帝が、正帝マクセンティウス帝に対し、312年ミルヴィオ橋の戦いで勝利した事を記念して315年に作られた。高さ28m、幅25.7m。見事なレリーフが施されている。


サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂
コンスタンティヌス帝が、312年に建築した世界で初めての本格的なキリスト教聖堂である。ラテラノ条約によってバチカン市国の領域外にありながらバチカン市国の特別な権利が認められている。ローマ教皇のローマ司教としての司教座聖堂(カテドラル)である。


ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
7つの丘の1つエスクィリーノの丘の上に建つ聖堂。教皇リベリウスの夢の中で「夏に雪の降った地に教会を立てよ」と聖母が告げ、実際に真夏に雪がふった場所に聖堂を建てたという伝説から、雪の聖母聖堂とも言われる。鐘楼は、1377年頃に建築され、ローマで最高の75mを誇る。


サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
4世紀、コンスタンティヌス帝により建築された、聖パウロの墓がある聖堂。奥行き131m、幅65m、高さ30m。内部は80本の大理石の柱が4列に並んでいる。フオーリ・レ・ムーラとは、城壁の外という意味で、その名の通り城壁から南へ2kmはなれた場所にある。聖堂の名前を日本語に直すと「城壁外の聖パウロ大聖堂」という名前になる。建築当時は小さな聖堂であったが、その後大規模な改修が行われた。しかし1823年の火災で全壊、1928年に再建された。


ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂
カラカラ浴場
217年にカラカラ帝によって造られた公衆浴場。1600人収容可能だったと推定されている。浴場以外にも図書館などもありローマ市民の娯楽施設であったことが伺える。度重なる破壊と略奪があったが、現在もモザイク模様の床などが残る。


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レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院

(英名) Church and Dominican Convent of Santa Maria delle Grazie with "The Last Supper" by Leonardo da Vinci
(仏名) L'eglise et le couvent dominicain de Santa Maria delle Grazie avec "La Cene" de Leonard de Vinci
登録年 1980年

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院(レオナルド・ダ・ヴィンチの『さいご-の-ばんさん』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエきょうかい-と ドメニコかい-しゅうどういん)は、イタリアのミラノにある世界遺産。

レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院最後の晩餐
ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの依頼で、レオナルド・ダ・ヴィンチがサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁画として描いた。 完成は1498年。

ヨハネ福音書に登場する一場面として、弟子の裏切りを予言するイエス・キリストと、それを受けて動揺する弟子たちの様子を、それまでに無い写実性をもって表した、縦4m・横9mの巨大なテンペラ画である。

一点透視図法が用いられ、あたかも絵の奥のほうまで食堂がつながっているかのような錯覚を観る者に起こさせる、いわゆる錯視的演出が施されている。


サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会は、ゴシック様式の聖堂を備える。 ドミニコ会の修道士ソラーリにより、1466年から1490年の間に建築されたといわれている。 この修道院も、ルドヴィーコ・スフォルツァの命によって改修され、回廊などが付け加えられた。


アクセス
地下鉄カドルナ駅、コンチリアツィオーネ駅もしくはノルド鉄道のミラノ・カドルナ駅が近い。カドルナ駅はターミナル駅のため、路面電車やバスなども頻繁に停車する。『最後の晩餐』を見学するためには有料の事前予約が必要(来訪時の観覧人数に空きがあれば、即時の見学が可能)。

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ヴァルカモニカの岩絵群

ヴァルカモニカの岩絵群

(英名) Rock Drawings in Valcamonica
(仏名) Art rupestre du Valcamonica
登録年 1979年


ヴァルカモニカの岩絵群(-いわえぐん)は、イタリア北部のアルプスの山麓にある世界遺産登録物件。イタリア初の世界遺産登録を果たしたものである。


ヴァルカモニカの岩絵群 Rock Drawings in Valcamonica概要
ヴァルカモニカ(Valcamonica, カモニカ渓谷)は、アルプスの山麓のオーリオ川(Oglio)沿いに約70kmに続いている渓谷である。

この渓谷の岩に、約1万年前に彫られたと推定されているものから、ローマ帝国時代のアルファベットの彫られた岩まで約8000年間に渡る線刻画が残っている。

彫られている線刻画の数は約14万点におよぶ。テーマは、農耕、航海、戦争から紀元前1500年頃の集落の地図など多岐に渡り当時の生活を知る貴重な資料になっている。


アクセス
ミラノから鉄道で1時間行ったところにあるプシャーレを経由するのが最も便利。

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コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観

(英名) Cornwall and West Devon Mining Landscape
(仏名) Paysage minier des Cornouailles et de l'ouest du Devon
登録年 2006年


コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観は、イギリス南西部のコーンウォール州からデヴォン州西部にかけてのいくつかの鉱山景観を対象とするユネスコの世界遺産の一つである。

2006年にヴィリニュスで開催された第30回世界遺産委員会で登録された。一帯の景観は18世紀から19世紀に銅やスズの深い鉱脈を採掘していったことによって、根源的な変貌を遂げた。

地下鉱山、エンジン・ハウス、鋳造所、ニュータウン、小さな畑、港湾、関連産業群などは、いずれも19世紀初頭には世界で供給される銅の3分の2を産出するまでになった豊かな技術革新を反映するものとなっている。

歴史
この地の鉱業はスズの鉱山開発からはじまった。1500年代半ばに至るまで、デヴォンで産出するスズの量はコーンウォールの25-40%だったが、この時点では両地域の産出量を合計したところで相対的に少ないものだった。

1540年代以降には、コーンウォールの生産量は飛躍的に伸びたが、デヴォンのそれはコーンウォールの9分の1ないし10分の1にとどまった。16世紀半ばにはデヴォンのスズ鉱山は王家の収入にとって微々たる物となった。

1800年代後半には、砒素の産出が突出しており、コーンウォール東部からデヴォン西部にかけての産出量は、当時の世界的な需要の半分にあたっていた。19世紀初頭には、蒸気機関での革命も起こり、堅い岩盤での採鉱を一変した。

技師リチャード・トレビシックによって発達した高圧の揚水機関(The high-pressure expansively operated beam pumping engine)は、従来よりも遥かに深く採掘することを可能にした。 同じころから、コーンウォールの伝統に根ざした鉱山労働者たちが他へ移住し、コミュニティを形成することが見られ始め、その流れは19世紀末に頂点に達した。

今日、コーンウォールからの移民に起源を持つコミュニティは世界中に見られ、コーンウォール様式のエンジンハウスも、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、チャネル諸島、マン島の鉱区にとどまらず、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、メキシコ、スペインなどでも目にすることができる。

1860年に銅の暴落が起こると、スズの生産が中心となり、以降コーンウォールでの鉱業は衰退の途を辿った。 コーンウォール地方の鉱山は、ヨーロッパで最後まで採掘していたスズ鉱山であるプール(Pool)のサウス・クロフティ鉱山が1998年に閉山されたことをもって、幕を閉じた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







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