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ヨーロッパの世界遺産 World Heritageを勉強中

2008年05月のアーカイブ

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁

(英名) Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd
(仏名) Châteaux forts et enceintes du roi Édouard Ier dans l'ancienne principauté de Gwynedd
登録年 1986年

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 (Castles and Town Walls of King Edward in Gwynedd)は、イギリス・ウェールズにあるUNESCO世界遺産。13世紀に建てられた4つの城の総称である。

グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁

これらの城は、ウェールズ公国を征服したイングランド王エドワード1世によって建てられた。1283年から1290年代にかけ建設を始めた城ばかりである。全てが軍事要塞の役割を担っており、平定されたとはいえいかにウェールズの反抗が激しかったかを物語るものである。

ビューマリス城
アングルシー島ビューマリスにある。1295年から建設されたが未完成のまま現在に至る。メナイ海峡を挟んで、ウェールズ抵抗運動の激しいGarth Celynに面するよう設計された。
グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 カーナーヴォン城 ビューマリス城

カーナーヴォン城
グウィネズ州カーナーヴォンにある城。1283年より建設が始められ、ウェールズを征服したイングランド王エドワード1世によって建設された。イギリス王太子の称号プリンス・オブ・ウェールズにゆかりのある城である。
グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 カーナーヴォン城

コンウェイ城
Clywd州コンウェイにある城。1283年から1289年にかけ建てられた。
グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 コンウェイ城

ハーレックス城
グウィネズ州ハーレックスにある城。1283年から1289年にかけ建てられた。15世紀にはウェールズ大公の末裔を名乗るオーウェン・グレンダワー軍がこの城に立てこもり、7年間イングランド軍に包囲されていた。
グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁 ハーレックス城

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ストーンヘンジ

ストーンヘンジ(Stonehenge)

(英名) Stonehenge, Avebury and Associated Sites
(仏名) Stonehenge, Avebury et sites associés
登録年 1986年

ストーンヘンジ(Stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。ストーンヘンジは北緯51度10分43.9秒西経1度49分6秒に所在する。


概要

円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。

馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。

遺跡の目的については、太陽崇拝の祭祀場、古代の天文台、ケルト民族のドルイド教徒の礼拝堂など、さまざまな説が唱えられているが、未だ結論はでていない。

この遺跡とその周辺は、1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。



語源

クリストファー・チッペンデールの Stonehenge Complete によると、ストーンヘンジの語源は古英語で石を意味する “sta-n” と、蝶番を意味する “hencg”(横石が縦石に蝶番のように積んであるから)もしくは絞首台または拷問具を意味する “hen(c)en” から来ているとされる。中世の絞首台は、今日見られるような逆L字型ではなく、二本の柱とそれに乗った横木で出来ていて、ストーンヘンジの構造に似ていた。

「ヘンジ」の部分はヘンジとして知られるモニュメントの一群を指す名前になった。考古学者は、内側に堀を持つ円形の土塁をヘンジと定義する。考古学の用語でしばしば起こる通り、これは古美術収集家の用語からの転用であるが、実際にはストーンヘンジは土塁が堀の内側にあるので、ヘンジには分類されない。本当の新石器時代のヘンジやストーンサークルと同時代であるにも拘らず、多くの点で非典型的である。例えば、トリリトンは他では見られない。ストーンヘンジは、ブロドガーのリングのようなブリテン島にある他のストーンサークルとは全く異なる。

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ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園

ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園

(英名) Studley Royal Park including the Ruins of Fountains Abbey
(仏名) Parc de Studley Royal avec les ruines de l'abbaye de Fountains
登録年 1986年

ファウンテンズ修道院遺跡群を含むスタッドリー王立公園

ファウンテンズ修道院(ファウンテンズしゅうどういん、Fountains Abbey)は、イングランド北部、ノース・ヨークシャーのリポンにあるシトー会の修道院跡である。

18世紀の庭と運河、19世紀のプランテーションと美しく広がる景色、スタッドリー王立公園のネオゴシックの城等は、イギリスでも傑出した場所となっている。

起源
ファウンテンズ修道院(ファウンテンズしゅうどういん、Fountains Abbey)は、13人のベネディクティーヌ修道士によって1132年に創立され、彼らは、後にシトー派修道会の修道士になった。

ヘンリー8世による1539年の修道院排斥後、土地のアビーの建物と500エーカー以上(2.0km²)は、王室からリチャードグレシャム卿(商人)へ売却された。

資産はリチャード卿家の数世代を通して受け継がれ、最終的に、おそらく1598~1604年の間にファウンテンズホールを建設したであろうスティーブン プロクターに売却された。

注目に値するエリザベス朝の大邸宅、Fountainsホールは、修道院の残骸である石から部分的に建設された。

現在、2つの部屋が一般公開されている。


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アイアンブリッジ峡谷

アイアンブリッジ峡谷(Ironbridge Gorge)

(英名) Ironbridge Gorge
(仏名) Gorge d'Ironbridge
登録年 1986年

アイアンブリッジ峡谷(Ironbridge Gorge)アイアンブリッジ峡谷(Ironbridge Gorge)はイングランドのシュロップシャー州にある、セヴァーン川がかたち作った峡谷である。ユネスコの世界遺産文化遺産に登録されており、周辺の敷地を含む屋外博物館アイアンブリッジ渓谷博物館はヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つとなっている。

本来「セヴァーン峡谷」と呼ばれていたが、その種の鉄橋として世界で初めて作られ、当地の産業遺産となった、有名なコールブルックデール橋(通称アイアンブリッジ)に基づいた名前の方が、今は通りがよくなっている。

アイアンブリッジ峡谷は美しく素晴らしい景色をもち、また歴史的にも重要な場所である。ここは産業革命の始まった土地とされている。産業革命はエイブラハム・ダービーがコールブルックデールで、コークスを使って高品質の鉄を作り出す、近代的な製鉄法を発明したことから始まった。周辺のブロースリー、コールポート、ジャックフィールドといった町とともに、この地域は産業の中心となっていった。

峡谷はセヴァーン川をブリストル海峡まで運んでいく。この峡谷は、最後の氷河期にアイルランド海の氷床が川をせき止めてラップワース湖を作り、この湖に北からの流れが留められたことから形作られた。湖の水位は上昇し、丘を越えて南へと流れ始めた。この流れが丘を侵食して峡谷になり、セヴァーン川を永遠に南方へ向わせることになった。

この地は二つの理由から初期の実業家にとって有用だった。一つは、石炭、鉄鉱石、石灰岩や粘土といった、鉄やタイルや磁器の生成のための原料が、峡谷では露出しているか、簡単に採掘できたこと。もう一つは、川が広く深いため、製品を海まで運ぶことを容易であったことである。


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ダラム城と大聖堂

ダラム城と大聖堂

ダラム城
(英名) Durham Castle and Cathedral
(仏名) Cathédrale et château de Durham
登録年 1986年

ダラム城 (Durham Castle)は、イギリス・ダラムにあるノルマン様式の城。1840年より全体がダラム大学学生寮となっている。城はウェア川を見下ろす丘のてっぺんにたち、対岸にはダラム大聖堂をのぞむ。
ダラム城と大聖堂
歴史
城の原型は、11世紀にイングランド王国北部においてノルマン朝の勢力を投影させるために建てられた。1066年のノルマン・コンクエストの分裂に従い、野蛮で移り気なままの北部イングランドの人口増加があったためである。城は、ノルマン人が好んだ初期モット・アンド・ベーリー型城の秀逸な例である。ダラム司教の聖務所としての城の所有は、アングロサクソン時代から封建的な領主司教であったダラム司教を味方につけて王家の権力を振るおうとした王によって、許可されたものだった。城はダラム司教座となった。


ベック司教の大広間入り口城は、ダラム司教がビショップ・オークランド(カウンティ・ダラムの町)に司教邸宅をつくるまで、ダラム司教の司教邸宅であった。城はダラム大学学生寮に転用された。

城内には、14世紀初頭に司教アントニー・ベックがつくった広大な大広間(en:Great Hall)がある。15世紀終わりに司教リチャード・フォックス(のちヘンリー8世に重用され王璽尚書も務める)が縮小するまで、イギリス最大の大広間だった。しかし、今も高さ14メートル、長さ30メートルの広さである。

大学学生寮
1837年、城は主教エドワード・マルトビーにより学生の住居として、新設されたダラム大学へ寄付された。ダラム大学学生寮(University College, Durham)と名付けられた。建築家アントニー・サルヴィンが原型平面図から荒れ果てた要塞部分を再建した。1840年に使用が始まり、城は今も100人以上の学生が住み、その大多数は要塞部分に暮らす。

大学の学生と職員は、食事をベク司教の大広間でとる。大広間の地下室は、もっぱら在学中の学生が第一に利用するバーを備えた談話室となっている。2つある礼拝堂は今も使用されており、どちらも施設として、または演劇活動に利用される。その他の施設には、大学図書館、大学事務室などが含まれる。学生寮が休暇に入ると、大学は城内の部屋を会議(ただし学会である)やホテルのような宿泊施設として使われる。一般人が城に入る手段は、ガイド・ツアーだけに制限される。これらの他、大学の限られた職員や休暇で呼ばれた客人が城を訪問できる。

礼拝堂
大学は城内の2つの礼拝堂を広範囲に渡り使用している。1つは1078年頃建てられたノルマン様式のノルマン礼拝堂、もう1つは1540年に建てられたタンストールズ礼拝堂(ヘンリー8世時代のダラム司教カスバート・タンストールにちなむ)である。

ノルマン礼拝堂は城の中で入れる部分としては最古の物である。現実にはアングロサクソン建築だが、礼拝堂を建てようとしてたぶんアングロサクソン人労働者が建設を強いられたためである。15世紀、礼拝堂内の3つの窓は、要塞部分拡張のため全てふさがれた。要塞部分から出入りする通廊として使われ出した1814年まで廃棄されたままだった。第二次世界大戦中、礼拝堂の元来の使用法を理解したうえで、礼拝堂はイギリス空軍の司令部と監視所として使われた 戦後すぐ後礼拝堂は聖化され、今も大学によって週課の場として使用されている。

タンストールズ礼拝堂は、先のノルマン礼拝堂よりも大きいことから頻繁に使われている。コジン司教とクルー司教は17世紀後半に礼拝堂を拡張した。礼拝堂後方には、16世紀の数席ある特免室(教会内で飲食の許された場所)がある。これらは、長時間立ったままの人が、上方にカーブした席の出っ張り上で休むことができるよう設計されている。




ダラム大聖堂
(英名) Durham Castle and Cathedral
(仏名) Cathédrale et château de Durham
登録年 1986年

ウェア川から見た大聖堂ダラム大聖堂(ダラムだいせいどう、Durham Cathedral)は、イングランド北東部のダラム州ダラム市にある英国国教会の大聖堂である。
ダラム城と大聖堂
概要
イングランド北東部、ダラム州ダラム市にあるダラム大聖堂は1093年に創建され、今もなおキリスト教信仰の中心地としての地位を保っている。この大聖堂は、ノルマン様式の教会としてはヨーロッパで最も精巧な建築物の例とされており、ユネスコにより、そばに立つダラム城と共に世界遺産に登録されている。大聖堂とダラム城は、ウェア川を見下ろす崖の上に建てられており、パレス・グリーンと呼ばれる緑地を挟んで向かい合っている。


祭祀物等
ダラム大聖堂は、教会の建物とリンディスファーン島(現在のイングランド北東部にあたるノーザンブリアの沖にある島で、聖域とされた)の聖人リンデスファーンのカスバート(7世紀)の聖遺物を保有しており、一般公開されている。またセント・オズワルド・オブ・ノーザンブリア(オズワルド王)の頭部と、聖ベーダの遺体も安置されている。さらに、325段ある階段を上ると、高さ66メートルの塔の最上階にたどり着く。そこからはダラムの街と周辺地域の眺望を楽しむことができる。


地位
ダラムの主教は代々、絶大な権力を持つ領主主教(英国国教会の主教でありながら領地の支配者をも兼ね、聖俗両界において権力を振るった)であり、19世紀の半ばまでその権勢が衰えることはなかった。今日においてもその地位は英国国教会中第4位であり、そのため現在ではダラム州を示す表示物に「領主主教の土地」という添え書きがなされているものも多い。


歴史

サクソン朝時代
ダラムの主教座の起源は、西暦635年頃ノーサンブリア王オズワルド(King Oswald)の命を受けて聖エイダン(Saint Aidan)が創設したリンディスファーン司教座領である(注:国教会では「主教」、カトリック教会では「司教」と呼ばれていることにならう)。 その地位は664年にヨークの司教の下に移管されて途絶えたが、678年にはカンタベリー大司教の手によって復活した。 リンディスファーンの宗教共同体は多くの聖人を輩出したが、その中でも聖カスバート(Saint Cuthbert,)(とその伝説)はダラム大聖堂創建に決定的な役割を果たすことになる。


受難
875年、ヴァイキングによる襲撃を繰り返し受けたため、リンディスファーンの僧侶たちは島から逃れ、聖カスバートの聖遺品と共に各地を転々とした。リンディスファーン司教座は882年にチェスター・ル・ストリート(現ダラム州)に宗教共同体が設立された後、995年まではこの地にあったが、更なるヴァイキングの襲来により、僧たちは聖遺品と共に再び逃れねばならなくなった。


中世
現存する大聖堂は、ダラムの初代領主司教であったウィリアム・オブ・セント・カリレフの下で初めて計画、建立された。1093年に建設が始まり、ウィリアムはこの計画の完成を見ず1135年に亡くなったが、計画は後継者であるラヌルフ・フランバードに引き継がれた。


20世紀
ダラム大聖堂は今もなお、英国国教会ダラム主教区ダラム主教座の地位にある教会である。また、映画『ハリー・ポッター』シリーズの中でホグワーツ魔法魔術学校として登場する。映画の中ではこの有名な塔の一群の先端には尖塔がかぶせられ、ロケ地がダラム大聖堂であることが観客に分からないよう目立たなくされている。一方、大聖堂の内部は映画『エリザベス』(1998年)の撮影に使用された。


伝説
この地に伝わる伝説によると、このときの僧たちの放浪のさい、茶褐色(dun)の牝牛をさがしていた乳絞りの2人の少女に出会った。少女たちを先頭にして歩いていると、ウェア川が蛇行しているためそこに輪のような形に突き出した土地に、いつしか入っていた。このとき聖カスバートの棺をどうしても動かすことができなくなったので、「これは『新しい教会をこの地に建てるべし』という神のお告げである」と解釈されたのだという(注:茶褐色はダラム大聖堂とダラム城の建物の色、牝牛は豊かさの象徴(=ダラム主教座領の繁栄の隠喩)である。またダラム(Durham)の古名はダンホルム(Dunholme)であった)。この地が選ばれたことの現実に即した理由としては、一つは防御に大変適した地形であったこと、そして当時の司教アルドゥーンが代々のノーザンバーランド伯と強い姻戚関係を結んでいたことから、ここに共同体を作れば伯爵の庇護を受けられる、との思惑もあったものと思われる。


建築物としての大聖堂
大聖堂内部の様子。天井にX印型のアーチが確認できる。この大聖堂が注目に値するのは、建物下部への負担を軽くするために

建物中央部(一般会衆席)の屋根に、梁を肋骨状に並べる方法でアーチ形を採用し、さらに×印型(=直角)に交差するアーチ群を併用した。これらのアーチは比較的細身の角柱と太い円柱を交互に配列した柱の列によって支えられている。
飛び梁(ばり)(高い外壁を支える弧形の梁)あるいは側壁との接合部分は、廊下の真上にあるトリフォリウム(=アーケード)の中に隠されている
この2点にある。こうした造りは、ダラム大聖堂が12世紀後半にフランス北部で見られるようになるゴシック様式建築の先駆であることを示している。また、建設に際してノルマン人の石工が関与していたことは間違いないが、建物自体はロマネスク様式であると考えられている。交差型のアーチと肋骨状に梁を通したアーチ型屋根を巧みに利用したことで、それ以前よりもはるかに凝った、そして複雑な一階部分の設計が実現することになった。さらに外壁を支える技術の利用により、より高さのある建物の建設と、より大きな窓をその側壁面にとることも可能になった。

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ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸

ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸

(英名) Giant's Causeway and Causeway Coast
(仏名) Chaussée des Géants et sa côte
登録年 1986年

ジャイアンツ・コーズウェー(Giant's Causeway)は、イギリス・北アイルランドにある、火山活動で生まれた4万もの石柱群が連なる地域。アントリム州ブッシュミルズの北2kmに位置する海岸線にある。
ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸

1986年にユネスコの世界遺産に登録され、翌年には北アイルランド環境省 (the Department of the Environment for Northern Ireland) によって自然保護区に指定された。2005年には『ラジオ・タイムズ』誌 (Radio Times) の読者投票で、「イギリスの最も偉大な自然の驚異」ランキング第四位に選ばれている。

ジャイアンツ・コーズウェーは、ナショナル・トラストによって管理されている。

歴史
古第三紀に、アントリムは激しい火山活動にさらされており、高い流動性を持った溶解した玄武岩が、白亜質の地盤に流れ込み、広大な溶岩台地を形成した。溶岩は急速に冷却したので収縮作用が起こった。垂直方向の収縮は流れの厚みを削減したが、水平方向の収縮は、ひび割れによって限定的なものになった。そして、広範囲にわたるひび割れの伝播が、現在見られる奇観を形成したのである。

柱の天辺はさながら踏み石のように平らで、柱の付け根は断崖の下から伸びているが、下の方は海の下に沈んでいる。柱はほとんどが六角柱で、中には、四角、五角、七角、八角のものもある。最も高い柱は12mに達し、崖で凝固した溶岩には厚さ28mになるものもある。

ジャイアンツ・コーズウェーの「発見」を世に知らしめたのは、トリニティ・カレッジのフェローだったリチャード・バルクリー卿 (Sir Richard Bulkeley) による王立協会の報告書(1693年)であるが、実際にはデリーの司教が1年早く訪れていた。

ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸
A View of the Giant's Causeway: East Prospect(ドルリーの版画)

この景観は、ダブリンの芸術家スザンナ・ドルリー (Susanna Drury) が1739年に水彩画として描いて国際的に有名になった。ドルリーは1740年にロイヤル・ダブリン・ソサエティ (Royal Dublin Society) の最初の賞に輝き、1743年には版画にもした。ジャイアンツ・コーズウェーは、1765年にはフランスの百科全書第12巻で見出し語となった。背景には、ドルリーの版画による知名度の向上もあったわけだが、その版画 "East Prospect" 自体は、1768年に出版された百科全書の図版に収録された。その図版のキャプションで、フランスの地質学者ニコラ・デマレ (Nicolas Desmarest) は、出版物では初めて、この構造物が火山活動の産物であることを示唆した。

この一帯は19世紀以降、特に路面電車のジャイアンツ・コーズウェー鉄道 (Giant's Causeway Tramway) が開通してから観光名所として賑わった。しかし、1960年代になってナショナル・トラストが管理を引き受けるようになると、商業主義は退潮していった。


類似の構造物
ジャイアンツ・コーズウェーの石柱群は印象的なものであるが、構造自体はそれほど珍しいものではない。もちろん、規模は世界的に見ても珍しいものではあるけれど、玄武岩の柱は、柱状節理によって生じるものに過ぎず、世界には様々な規模のものがある。より早く冷却されれば、それだけ石柱の規模も小さくなる。ジャイアンツ・コーズウェーとコーズウェー海岸

柱状節理が見られる他の有名な場所には、スコットランドのフィンガルの洞窟、アルメニアのGarni gorge、シチリア島近くのCyclopean Isles、米カリフォルニア州のDevils Postpile National Monument、ワイオミング州のDevils Tower National Monument、メキシコ・イダルゴ州の玄武岩プリズム (Basalt Prisms)、ニュージーランド・カーギル山 (Mount Cargill) のオルガン管状構造物群、国後島のMis Stolbchaty(「円柱状の岬」)などがある。


名所
この地域の構造物には、数百万年にわたって風雨にさらされてきた結果、何らかの形になぞらえうるものもある。「オルガン」、「巨人のブーツ」、低い円柱が風雨で丸くなった「巨人の目」、「羊飼いの足跡」、「蜂の巣」、「巨人のハープ」、「組み合わせ煙突」、「巨人の門」、「巨人のこぶ」などである。

また、孤立する高い柱は、1588年にスペイン戦艦ヒローナ号が遭難した際に、煙突と見間違えてぬか喜びさせられたという逸話もある。


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マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷

マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷

(英名) Madriu-Perafita-Claror Valley
(仏名) La Vallée du Madriu-Perafita-Claror

登録年 2004

マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷(カタルーニャ語:Vall del Madriu-Perafita-Claror)はアンドラ公国の南部に位置する。2004年にユネスコ世界遺産の文化遺産に登録、2006年に登録地が拡大された。マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷<br />

マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷は、アンドラの南部、エンカンプ、アンドラ・ラ・ベリャ、サン・ジュリア・デ・ロリア、エスカルデス・エンゴルダニの4つのパロキアにまたがっており、国土面積の9パーセント(4247ヘクタール)を占めている。

岩山や氷河、森林、湖といったピレネー山脈の自然の中に、集落や牧草地、山小屋、鉄の精錬所跡などが点在しており、700年以上にわたって山岳地域の人々が営んできた生活の文化的景観を世界遺産としたものである。


登録経緯
2001年12月より、ICOMOSのアンドラ国内委員会が準備を開始、2002年7月に暫定リストに含め提出した。

2003年1月、アンドラ政府関係者(文化、農業、環境の各大臣)とエンカンプ、アンドラ・ラ・ベリャ、サン・ジュリア・デ・ロリア、エスカルデス=エンゴルダニの各市長が、マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷保護管理憲章に共同調印し、正式に世界遺産への登録をユネスコに申請した。なお、当初の登録名候補(英語)は「マドリウ=クラロ=ペラフィタ渓谷(Madriu-Claror-Perafita Valley)」であったが、後に現在の順番に変更されている。

2003年3月、ユネスコ世界遺産委員会が申請を正式受理、同年10月よりICOMOSおよびIUCNによる現地調査が開始された。

2004年7月1日、第28回世界遺産委員会(中国、蘇州)において、文化遺産として正式登録された。2006年7月にはバッファーゾーンを加えて登録地が拡大された。



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エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡

エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡(アルメニア共和国)

(英名) The Cathedral and Churches of Echmiatsin and the Archaeological Site of Zvartnots
(仏名) La cathedrale et les eglises d’Etchmiadzine et le site archeologique de Zvartnotz
登録年 2000年

エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡(エチミアジンのだいせいどうときょうかいぐんならびにズヴァルトノツのこうこいせき)は、アルメニア共和国にあるユネスコの世界遺産登録物件名。登録は2000年。古いキリスト教の教会堂を対象とする。

概略エチミアジンの大聖堂と教会群ならびにズヴァルトノツの考古遺跡(アルメニア共和国)
アルメニアは世界でも最も古い文化を持つ国のひとつで、301年には、歴史上初めてキリスト教を国教と定めている。

東ローマ帝国とサーサーン朝に挟まれたアルメニア王国は、5世紀になると両国に分割されて滅ぶが、6世紀末には東ローマ帝国のあらゆる場所にアルメニア人のコミュニティが形成され、特に軍の要職はアルメニア人が占めるほどになった。

アルメニア人は東ローマ帝国内に社会的優位性を築き、ビザンティン建築においても、その発展に寄与することになる。

アルメニア最古の教会建築物は5世紀から6世紀に遡り、その形式はシリアの影響を強く受けたものであった。5世紀のアルメニアの歴史家アガタンゲロスによると、聖堂の建設は、最初の大主教啓蒙者グレゴリオスが、キリストが天から下りて、金色の槌で大地に触れるビジョンを見たことに始まる。彼はその場所、ヴァガルシャパト(現エチミアジン)に大聖堂を建設した。

現在の聖堂群は、610年から670年頃にアルメニア建築が高度に洗練された頃に建設されたものを中核とする。この時期、アルメニア高地は、暗黒時代に突入した東ローマ帝国本土に代わり、ビザンティン建築を牽引するたはらきを担った。

ただし、厳密に言うと、アルメニア建築はビザンティン建築に包含されるものではなく、常にアルメニアの独自性を保ち続けたと言って良い。大聖堂以外に、スルブ・ガヤネ聖堂、スルブ・フリプシメ聖堂、スルブ・アストゥアツァンティン(聖母)聖堂などが登録されている。


主な建築物
世界遺産には、3つの領域が指名されている。

エチミアツィンのスルブ・アストゥアツァンティン大聖堂とスルブ・ガヤネ聖堂
スルブ・フリプシメ聖堂
王宮跡を含むズヴァルトノツの考古遺跡



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ギロカストラ Gjirokastra

ギロカストラ(Gjirokastra)

(英名) Museum-City of Gjirokastra
(仏名) Ville-musée de Gjirokastra
登録年 2005年

ギロカストラ(Gjirokastra)はアルバニア南部の都市で、ギロカストラ州の州都。ギロカスタル(Gjirokastër)とも。人口およそ2万3000人(2007年)。
アルバニア ギロカストラGjirokastra
歴史
ビザンツ帝国時代の13世紀後半に城塞都市が築かれ、アルギロカストロン(ギリシャ語:Αργυρόκαστρον、「銀の城」の意)と呼ばれた。やがて城塞の周囲に街が拡大。バルカン半島に勢力を伸ばしてきたオスマン帝国によって1419年に征服。アルバニアが独立すると1913年にその領土となった。

世界遺産
アルバニア政府は歴史的な価値のある街並みを「博物館都市」に指定しており、ギロカストラはそのひとつである。同指定を受けた都市は他にベラトがある。

街並みを形作っているのは、この地域特有のクラ(kullë、「塔」の意・トルコ語の"kule"に由来)と呼ばれる石造りの家屋で、オスマン帝国時代に建造されたものである。

この街に残る城塞、家屋、市場、宗教建築物は2005年に「ギロカストラの博物館都市」としてユネスコの世界遺産に登録された。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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ブトリント Butrint

ブトリント(アルバニア語:Butrint)は、アルバニア南部のサランダ県にある都市遺跡。かつてはギリシャ語でブトロトン(Βουθρωτόν)、ラテン語でブトロトゥム(Buthrotum)と呼ばれた。


(英名) Butrint
(仏名) Butrint

登録年 1992年

歴史
ブトリントは古代ローマの詩人、ヴェルギリウス作の叙事詩『アエネイス』に登場する。それによれば建設者はトロイアの王プリアモスの息子、ヘレノスであり、彼はトロイアの陥落後この地へ逃れてきたという。

この物語がどこまで事実に基づくものかは定かではないが、学術的な調査によってこの地には少なくとも紀元前8世紀には人の定住があったことがわかっている。海峡に接する要地であったこともあり、対岸のケルキラ(コルフ)とともに海上交易によって発展、紀元前4世紀までには防壁を持った都市としての形を成すまでになり、劇場やアゴラ、アスクレピオスの神殿なども造られた。

ギリシャ方面に領域を拡大しつつあったローマは、紀元前167年にこの地を支配下に置き、ギリシャ侵攻の基地とした。のちローマ皇帝アウグストゥスはここに植民地を建設し、この時期にローマ式浴場やニンファエウム(ニンフを祀る泉)が造られた。しかしその後は徐々に衰退していった。

6世紀になるとブトリントにはキリスト教の洗礼所や聖堂が造られた。この洗礼所は当時最大級のものであった。この頃にはビザンツ帝国の領土であったが、7世紀にブルガリア帝国が興るとその支配を受けた。9世紀には再びビザンツ帝国に取り戻されている。

帝国は1204年の第4回十字軍の攻撃によって分解し、亡命政権のひとつエピロス専制侯国の一部となった。その後何世紀もの間、ビザンツ帝国、南イタリアのアンジュー朝、およびヴェネツィア共和国の対立の地となり、その領有者は次々と変わっていった。

1797年、カンポ・フォルミオ条約に基づきヴェネツィアからナポレオンにこの地域が割譲されてフランスの支配下に入ったが、1799年、オスマン帝国の地方総督テペデレンリ・アリー・パシャが征服。1912年にアルバニアは独立したが、その頃にはすでにブトリントにはわずかな居住者しかおらず、遺跡は沼地に埋もれて植物の生い茂るままの状態となっていた。

ベニート・ムッソリーニの命によって1926年、この古代の叙事詩ゆかりの地において最初の学術的な発掘調査が行われた。1948年からはアルバニア政府が法的に保護。1992年にはユネスコの世界遺産に登録された。

また、人の住まぬ土地になったこともあって周辺には豊かな自然環境が保たれており、2003年にはラムサール条約の登録地になっている。

世界遺産
1992年に登録。1997年にアルバニアがネズミ講の破綻をきっかけとした国内動乱に見舞われたことにより危機遺産に指定されたが2005年に解除。また、2度にわたって登録区域の拡大が行われている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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スケリッグ・マイケル

スケリッグ・マイケル(アイルランド)

スケリッグ・マイケル(英: Skellig Michael 、アイルランド語: Sceilig Mhichíl 「ミカエルの岩」の意)とはアイルランド島の西方ケリー州の沖合16キロメートルに位置する面積0.18平方キロメートルの急峻な岩山からなる孤島。西暦588年に標高240メートルの島の山頂付近にケルト人により修道院が建てられた。1996年にはユネスコにより世界遺産に登録されている。

スケリッグ・マイケル Skellig Michael

島の位置とその急峻さにより、現在にいたるまで修道院はその原型を良くとどめている。アイルランドにおける初期キリスト教の僧侶たちは垂直に切り立った崖の下に、石を積み上げてつくった小屋で暮らしていた。

スケリッグ・マイケルの修道院は、823年のヴァイキング襲来にも耐えて西暦1000年前後には教会が拡張された。その後100年ほどして施設は放棄され島には人が住まなくなった。

西暦1500年頃になると毎年海が穏やかになる時期を見はからって巡礼が訪れるようになる。1826年には灯台が建設され、1986年には一部の建築物の修復が行われた。しかし、近年観光客の増加により遺跡が損傷していることから、島への渡航が制限されるようになっている。

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島には、マンクスミズナギドリ、ウミツバメ、ウミガラス、オオハシウミガラス、ミツユビカモメ、フルマカモメ、カツオドリなどの海鳥が生息し、自然保護区に指定されている。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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ボイン渓谷の遺跡群

ボイン渓谷の遺跡群(アイルランド)

(英名) Archaeological Ensemble of the Bend of the Boyne
(仏名) Ensemble archéologique de la vallée de la Boyne

登録年 1993年

ボイン渓谷の遺跡群ブルー・ナ・ボーニャ ニューグレンジ

ブルー・ナ・ボーニャ(Brú na Bóinne, ボインの宮殿)は、アイルランドのボイン川の屈曲部に位置する新石器時代の石室墳、立石、その他先史的遺跡群の複合体で、国際的にも重要なものである。時代が下ると、鉄器時代には墓地として使われ、中世にはノルマン人が入植した。また、1690年にはボイン川の戦いの舞台にもなった。

この一帯はしばしばボイン渓谷 (Bend of the Boyne) と呼ばれ、不正確にも「ブルー・ナ・ボーニャ」それ自体を指すときにも使われることがある。世界遺産に登録されているのは、アイルランドの国定史跡にもなっている部分である。

概要
面積は780haで、他の先史的遺跡群と同じような40の羨道墳を含んでいる。史跡の大部分は、川の北側に集中している。ブルー・ナ・ボーニャで最も有名な遺跡は、巨石群の特筆すべき集積体であるニューグレンジ (Newgrange)、ノウス (Knowth)、ドウス (Dowth) の各墳墓である。それらは川の屈曲部の稜線に立てられており、ノウスとニューグレンジは、より古い史跡で使われていた石を再利用しているようにも見える。この地でのより早い活動の痕跡は、中石器時代の狩人が遺したらしい火打石などを除けば、発見されていない。

川の屈曲部では、他にも多くのエンクロージャーや巨石遺跡が確認されている。上掲の3つの墳墓に加えて、いくつかの祭祀場が次のような遺跡を形成している。

ドウス・ホール羨道墳群 (Dowth Hall passage graves)
Cloghalea Henge
タウンレイホール羨道墳 (Townleyhall passage grave)
モンクニュータウンヘンジ (Monknewtown henge) と祭礼の泉 (ritual pond)
Newgrange cursus
3つの主要巨石遺跡は、天文考古学上の重要な意味も持っている。ニューグレンジとドウスは冬至の太陽に対応し、ノウスは春分の太陽に対応しているのである。隣接する遺跡群についても、他の対応関係がないか検討されている。また、渓谷のブルー・ナ・ボーニャのレイアウトやデザイン自体も、天文学的意味の検討がなされている。

ボイン渓谷の西側、東側、南側が囲まれているように、北側はボイン川の支流であるマトック川が流れており、ほとんど完全に水に囲まれているようなものである。2つの先史的遺跡を除けば、全てがこの川の地峡に存在しているのである。


ブルー・ナ・ボーニャ案内センター
ニューグレンジとノウスへはガイド付きツアーでしか立ち入れない。ツアーは、ブルー・ナ・ボーニャ案内センター (Brú na Bóinne Visitor Centre) から出発することになっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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シンクヴェトリル国立公園

シンクヴェトリル(Þingvellir)はアイスランドの国立公園地域。ユネスコの世界遺産に登録されている。

シンクヴェトリル国立公園
(英名) Þingvellir National Park
(仏名) Parc national de Þingvellir
登録年 2004年

シンクヴェトリル ユネスコ 世界遺産地勢
シンクヴェトリル付近は、大西洋中央海嶺の地上露出部分であって、ユーラシアプレートが東に北米プレートが西に広がっている。そのため各地で大地の裂け目が見られ、独特な岩肌を眺めることができる。近隣の都市としては、40キロ南西にレイキャヴィーク、45キロ西にアクラーネスが位置している。


歴史
930年、ノルウェーからの移住者によって、この地で「アルシング」(Alþingi)と称される民主的な全島集会が開催された。この全島集会を議会ととらえれば、中世の身分制議会ではなく近代議会が既に存在していたことになる。かつてアルシングが開催された場所に、現在は国旗が掲揚されている。

1930年に国立公園に指定され、2004年には世界遺産に登録された。

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