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ヨーロッパの世界遺産 World Heritageを勉強中

ウクライナ

シュトルーヴェの測地弧

シュトルーヴェの測地弧

(英名) Struve Geodetic Arc
(仏名) Arc géodésique de Struve
登録年 2005年

ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧シュトルーヴェの測地弧(シュトルーヴェのそくちこ)は、ドイツ出身のロシアの天文学者フリードリッヒ・ゲオルグ・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年にかけて設置された三角測量点群。

これらの観測点群は地球の大きさなどを正確に測る上で多大な貢献をしたものであり、当時設置された拠点のうち、34拠点を対象として2005年にユネスコの世界遺産に登録された。

これは10か国にまたがる珍しい物件であるが、設置された当時の国境区分ではわずか2か国(スウェーデン=ノルウェー、ロシア帝国)にまたがっているに過ぎないものであった。


●北端ノルウェーのFuglenes北緯70度40分12秒東経23度39分48秒
●南端ウクライナのStaro-Nekrassowka北緯45度19分54秒東経28度55分41秒


ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧
シュトルーヴェ


登録地の一覧
赤点が世界遺産に登録された地点

ノルウェー
Fuglenes in ハンメルフェスト
Raipas in en:Alta
Luvdiidcohkka in en:Kautokeino
Baelljasvarri in Kautokeino

スウェーデン
"Pajtas-vaara" (en:Tynnyrilaki) in キルナ
"Kerrojupukka" (en:Jupukka) in en:Pajala
en:Pullinki in en:Övertorneå
"Perra-vaara" (Perävaara) in en:Haparanda

フィンランド
Stuor-Oivi (現 Stuorrahanoaivi) in en:Enontekiö (Enontekis in Swedish)
Avasaksa (現 アーバサクサ) in en:Ylitornio (Övertorneå in Swedish)
Tornea (現 Alatornion kirkko) in en:Tornio (Torneå in Swedish)
Puolakka (現 Oravivuori) in en:Korpilahti
Porlom II (現 Tornikallio) in en:Lapinjärvi (en:Lappträsk in Swedish)
Svartvira (現 Mustaviiri) in en:Pyhtää (Pyttis in Swedish)

ロシア
"Mäki-päälys" (Mäkinpäällys) in en:Hogland
"Hogland, Z" (Gogland, Tochka Z) also in Hogland

エストニア
"Woibifer" (Võivere) in Avanduse
"Katko" (Simuna) in Avanduse
"Dorpat" (Tartu observatory) in タルトゥ

ラトビア
"Sestu-Kalns" (Ziestu) in Sausneja
"Jacobstadt" (Jekabpils) in en:Jekabpils

リトアニア
"Karischki" (Gireišiai) in Panemunėlis
"Meschkanzi" (Meškonys) in en:Nemenčinė
"Beresnäki" (Paliepiukai) in Nemėžis

ベラルーシ
"Tupischki" (Tupishki) in en:Oshmyany地区 (54°17′29″N 26°2′43″E / 54.29139, 26.04528)
"Lopati" (Lopaty) in Zelva地区 (53°33′37″N 24°52′11″E / 53.56028, 24.86972)
"Ossownitza" (Ossovnitsa) in Ivanovo地区 (52°17′21″N 25°38′58″E / 52.28917, 25.64944)
"Tchekutsk" (Chekutsk) in Ivanovo地区 (52°12′55″N 25°33′12″E / 52.21528, 25.55333)
"Leskowitschi" (Leskovichi) in Ivanovo地区 (52°9′38″N 25°34′17″E / 52.16056, 25.57139)

モルドバ
"Rudi" in Rudi

ウクライナ
Katerinowka in Antonivka, Khmelnytsky Oblast ( 49°33′57″N, 26°45′22″E)
Felschtin in Hvardiiske, Khmelnytsky Oblast ( 49°19′48″N, 26°40′55″E)
Baranowka in en:Baranivka, Khmelnytsky Oblast ( 49°08′55″N, 26°59′30″E)
Staro-Nekrassowka (Stara Nekrasivka) in Nekrasivka, en:Odessa Oblast ( 45°19′54″N, 28°55′41″E)

ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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diemausic9 15:08 | コメント(167) | トラックバック(2) | ウクライナ

リヴィフ歴史地区

リヴィフ歴史地区L'viv - the Ensemble of the Historic Centre

(英名) L'viv - the Ensemble of the Historic Centre
(仏名) Lviv - ensemble du centre historique
登録年 1998年


ユネスコ世界遺産 リヴィウ L'viv - the Ensemble of the Historic Centreリヴィウ(ウクライナ語:Львівリヴィーウ)は、ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州都。

なお、この町の名に関する日本語表記にはさまざまなバリエーションがある。ウクライナ語名として「リヴィウ」、ロシア語名として「リヴォフ」(Львов リヴォーフ)、ポーランド語名として「ルヴフ」(Lwów ルヴーフ)、ドイツ語名として「レンベルク」(Lemberg レンベルク)と表記される。文献上で圧倒的に多いのはロシア語風表記であったが、近年はウクライナ語名で書かれることも少なくなくなってきた。ポーランド名やドイツ語名は、この都市がポーランド語圏やドイツ語圏の国家によって支配された時代に限り、適正に使用される。日本語の地図帳などでしばしば見られた「リヴィフ」という表記は、ウクライナ語名をロシア語若しくはポーランド語読みしたと考えられる表記で、日本語での慣用でありウクライナ語名としては正しくない。また、ロシア語名をもとにしたローマ字読み風表記として「ルヴォフ」が使用されることもある。


概要
リヴィウは、西ウクライナ・ハルィチナーの中心都市である。人口は約83万人。ポーランドとの国境から70km。

温暖な大陸性の気候で、1月の平均気温は-4度、7月の平均気温は18度。年間の降水量は660mm。夏季にはしばしば水が不足する。

歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。


歴史
すでに5世紀にはこの地に人が住んでいたようである。大モラヴィア国(9世紀-10世紀)が滅んだ後は、ポーランドとキエフ・ルーシの角逐の場となった。981年にキエフ・ルーシのウラジーミル大公によって征服された。13世紀にはルテニア公国のダニロ王によって都市が建設され、その息子レヴに因んで名づけられた。1256年の年代記にすでに都市として言及されている。

1386年にヤギェウォ朝ポーランドに服属する。ポーランド(後にポーランド・リトアニア連合王国)の支配下で、リヴィウは黒海とバルト海を結ぶ交易路の中継地として大きく発展した。17世紀はじめの人口は約3万人。

17世紀を通じて、リヴィウはウクライナ・コサックやスウェーデン、オスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受けた。1704年には北方戦争でカール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。

1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国に帰属される。公用語はドイツ語とされ、ドイツ人やチェコ人が実権を握った。19世紀初めより、オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、それに対して1848年には民衆蜂起が起こった。住民の請願は後に受け入れられ、1860年代には大きく自治が認められた。その後、リヴィウはポーランド文化の中心地としても、また、ウクライナ文化の中心地としても重要な都市となった。その時代、ウクライナのその他の地域はロシア帝国に支配されており、ウクライナ語による出版は禁じられていた期間が長かった。

第一次世界大戦で、1914年にリヴィウは一旦ロシア軍に占領されたが、翌1915年には再びオーストリア・ハンガリー帝国によって奪還された。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が消滅すると、1918年11月1日、西ウクライナ国民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。

しかし、それに対してポーランド人の住民が蜂起し、都市の中心部を掌握した。ポーランド・ウクライナ戦争におけるポーランド人とウクライナ人の住民のあいだの戦闘は翌1919年7月まで続き、多くの犠牲者が出た。戦闘はポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド側の圧勝に終わり、再びポーランドの支配が復活した。西ウクライナ国民共和国勢力の残党は、キエフやジトームィルを中心に国家を建設していたウクライナ国民共和国に政府を統合させたり、あるいは赤軍と合同してポーランドとの戦闘を継続した。

その後、ウクライナ国民共和国のドィレクトーリヤ政府は、ロシアの赤軍に対抗するためにポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。1920年のポーランド・ソビエト戦争では、武装した住民が市内に侵攻した赤軍を撃退した。しかしながら、ポーランドはウクライナを裏切って単独でソビエト側との講和に入った。1920年10月12日のリガ講和条約でソ連はリヴィウを含む一帯をポーランドに明け渡した。

第二次世界大戦において、1939年9月1日にポーランドに侵攻したドイツ軍は、その後まもなくリヴィウを包囲した。ポーランド兵の率いた蜂起は失敗し、町はモロトフ・リッベントロップ協定にもとづきソビエト連邦に引き渡された。1941年6月22日に始まった独ソ戦の緒戦で町はドイツ軍に占領された。


ユネスコ世界遺産 リヴィウ L'viv - the Ensemble of the Historic Centre
ヤン3世 (ポーランド王)の宮殿の中庭


第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに移ったとされる。それ以後、リヴィウはウクライナの民族文化の中心都市の一つとして、ロシア化への抵抗の牙城となった。

1803年以来東方典礼教会のひとつであるウクライナ・ギリシャ=カトリック教会の総本山がおかれたが、2005年8月、ウクライナ・ギリシャ=カトリック教会はキエフに本拠地を移した。


交通

路面電車リヴィウ市電、バスなどがある。空港としては、リヴィウ国際空港が空の玄関口となっている。

教育
大学
イヴァン・フランコー記念リヴィウ国立大学(ヤン・カジミェシュ大学)
リヴィウ工科大学

リヴィウ出身の人物
ヤン・ウカシェヴィチ:論理学者・哲学者
アダム・ウラム:歴史学者
ボグスワフ・シェッフェル:作曲家、劇作家、画家、音楽学者
ミハイル・フリードマン:企業家
アレクシス・フォン・マイノング Alexis von Meinong:哲学者
アレクサンドラ・マリーニナ:推理作家
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス:経済学者
リヒャルト・フォン・ミーゼス:科学者
グリゴリー・ヤブリンスキー:政治家
スタニスワフ・レム:小説家、SF作家、思想家
アダム・ラパツキ:政治家
モーリツ・ローゼンタール:ピアニスト
アルフレート・ロトカ:統計学者
ヴォイチェフ・キラール:作曲家
ザッヘル・マゾッホ:小説家


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








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diemausic9 11:37 | コメント(13) | トラックバック(0) | ウクライナ

キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院

キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院

(英名) Kiev: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kiev-Pechersk Lavra
(仏名) Kiev : cathédrale Sainte-Sophie et ensemble des bâtiments monastiques et laure de Kievo-Petchersk
登録年 1990年

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavra聖ソフィア大聖堂 (キエフ)

聖ソフィア大聖堂(ウクライナ語:Собор святої Софіїソボール・スヴャトーイィ・ソフィーイィ、またはСофійський Соборソフィーイスィクィイ・ソボール)
はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家、キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に世界遺産に登録された。

歴史
ルーシ年代記によれば、聖ソフィア大聖堂は1017年ないし1037年にキエフ大公国のヤロスラウ大公によって建立されたのである。また、同じの年代記の伝説によれば、その大聖堂はヤロスラウがペチェニーヒの大軍を破り、大勝利を得た場所に建てられたという。

聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために造られた。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまでに、ルーシの大司教の座、大公たちの即位儀式・結婚式・葬式の場所、それに、異国使節団の接待の場所として多面的に利用されてきたのである。大聖堂ではルーシ初の図書館と大学が存在し、国家の歴史編纂作業も行われていた。

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavraキエフの聖ソフィア大聖堂は中世ヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つであった。その広さは54.6メートル、長さは41.7メートル、床から中央ドームまでの高さは28.6メートルほどであった。大聖堂は5つのネーヴ、5つのアプスと13のドームを有していた。大聖堂内では色彩に富んだモザイク・フレスコ・イコンがあった。全体として、大聖堂はビザンツ様式でたてられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持っていた。その名称は、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。

1169年にキエフは、現在のロシアの故郷とよばれるウラジーミル・スーズダリ大公国の軍勢によって略奪された。そのときは、聖ソフィア大聖堂は初めて大きな被害を受けた。その後、1240年、キエフはモンゴル帝国の大軍によって占領され、キエフ・ルーシが亡び、大聖堂は部分的に荒れ果てた。

1569年に聖ソフィア大聖堂はウクライナ・カトリック教会の司教座となり、大聖堂内では本格的に修理が行われた。1633年になると、その大聖堂はウクライナ正教会の手に渡され、イタリアの建築家、オクタヴィーノ・マンチーニが修理作業を指導した。その作業はようやく1740年にイヴァーン・マゼーパの時代に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロック様式で造りかえられた。現存している聖ソフィア大聖堂は当時の姿のままである。

聖ソフィア大聖堂は、東ヨーロッパの諸国にとっては最も重要な聖地である。



キエフ・ペチェールシク大修道院

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavraキエフ・ペチェールシク大修道院(ウクライナ語:Києво-Печерська лавраクィーイェヴォ・ペチェールスィカ・ラーヴラ;キエフの洞窟大修道院)はウクライナの首都、キエフのペチェールシク地区に位置するキリスト教の大修道院である。キエフ大公国の時代、1051年に建立された。ウクライナの比叡山ともいうべきもので、宗教・教育・学問に大きな影響を与えつつ、様々な政権と争ってきた修道院である。1990年に世界遺産に登録された。

現在、大修道院の地域は、キエフ・ペチェールシク歴史文化国立保護館と、モスクワの総主教に属するロシア系の「ウクライナ正教会」の間に分かれている。ウクライナ正教会の現在の指導者はヴォロディームィル・サボダン府主教である。


キエフ・ペチェールシク大修道院は、聖ソフィア大聖堂とともに「キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ-ペチェールスカヤ大修道院」として、1990年に世界遺産に登録された。


ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavra
大修道院内の一番大きなウスペンシキイ大聖堂(生神女就寝の大聖堂)。

第二次世界大戦、1941年、キエフがドイツ軍の支配下にあった時、ソ連のKGBスパイは大聖堂を爆発させた。戦後、その事件の事実が隠され、事件そのものがソ連のプロパガンダによって「ナチス・ドイツによる文化遺産の崩壊の一例」として作り変えた。ソ連崩壊後、独立ウクライナ政府の支援によって復建された。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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diemausic9 10:03 | コメント(9) | トラックバック(4) | ウクライナ
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