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ヨーロッパの世界遺産 World Heritageを勉強中

イギリス

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観

コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観

(英名) Cornwall and West Devon Mining Landscape
(仏名) Paysage minier des Cornouailles et de l'ouest du Devon
登録年 2006年


コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観コーンウォールと西デヴォンの鉱山景観は、イギリス南西部のコーンウォール州からデヴォン州西部にかけてのいくつかの鉱山景観を対象とするユネスコの世界遺産の一つである。

2006年にヴィリニュスで開催された第30回世界遺産委員会で登録された。一帯の景観は18世紀から19世紀に銅やスズの深い鉱脈を採掘していったことによって、根源的な変貌を遂げた。

地下鉱山、エンジン・ハウス、鋳造所、ニュータウン、小さな畑、港湾、関連産業群などは、いずれも19世紀初頭には世界で供給される銅の3分の2を産出するまでになった豊かな技術革新を反映するものとなっている。

歴史
この地の鉱業はスズの鉱山開発からはじまった。1500年代半ばに至るまで、デヴォンで産出するスズの量はコーンウォールの25-40%だったが、この時点では両地域の産出量を合計したところで相対的に少ないものだった。

1540年代以降には、コーンウォールの生産量は飛躍的に伸びたが、デヴォンのそれはコーンウォールの9分の1ないし10分の1にとどまった。16世紀半ばにはデヴォンのスズ鉱山は王家の収入にとって微々たる物となった。

1800年代後半には、砒素の産出が突出しており、コーンウォール東部からデヴォン西部にかけての産出量は、当時の世界的な需要の半分にあたっていた。19世紀初頭には、蒸気機関での革命も起こり、堅い岩盤での採鉱を一変した。

技師リチャード・トレビシックによって発達した高圧の揚水機関(The high-pressure expansively operated beam pumping engine)は、従来よりも遥かに深く採掘することを可能にした。 同じころから、コーンウォールの伝統に根ざした鉱山労働者たちが他へ移住し、コミュニティを形成することが見られ始め、その流れは19世紀末に頂点に達した。

今日、コーンウォールからの移民に起源を持つコミュニティは世界中に見られ、コーンウォール様式のエンジンハウスも、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、チャネル諸島、マン島の鉱区にとどまらず、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、メキシコ、スペインなどでも目にすることができる。

1860年に銅の暴落が起こると、スズの生産が中心となり、以降コーンウォールでの鉱業は衰退の途を辿った。 コーンウォール地方の鉱山は、ヨーロッパで最後まで採掘していたスズ鉱山であるプール(Pool)のサウス・クロフティ鉱山が1998年に閉山されたことをもって、幕を閉じた。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』







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diemausic9 12:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | イギリス

海港商業都市リヴァプール (Liverpool)

海港商業都市リヴァプール (Liverpool)

(英名) Liverpool - Maritime Mercantile City
(仏名) Liverpool – Port marchand
登録年 2004年


海港商業都市リヴァプール Liverpool

リヴァプール (Liverpool) は、イギリス、イングランド北西部マージーサイド州の中心都市。ビートルズの出身地として世界中の音楽ファンに知られている。かつて、奴隷貿易の中心港として繁栄したという負の歴史も有する。市域面積は111.84平方キロメートル、2005年の人口は447,500人。2008年の欧州文化首都の一つ。


地勢
アイリッシュ海に面し、マージー川の河口に位置する。18世紀より貿易港として発展した。近隣の都市としては、約50キロ東に位置するマンチェスター、約25km南に位置するチェスターなどが挙げられる。マンチェスターとは市域面積及び市域人口がほぼ同じ。


歴史
最初に記録に現れるのは1195年、"Liuerpol"または"dirty pool"としてである。それから12年後、1207年にジョン王が都市建設に勅許を出し、まだ村だったリバプールに自由都市の特権をあたえた。

とはいえ、しばらくは小さな港で、16世紀中ごろの人口は600人程度であった。しかし17世紀末に近郊のチェスター港が泥の堆積によって衰退、チェスターに代わってイングランド北西部商業都市の代表格にのし上がり、郊外では製造業が成長し、アメリカおよび西インド諸島との貿易が増大するにしたがい町は繁栄した。

海港商業都市リヴァプール Liverpool
1715年、イギリス初の係船ドックが建設される。植民地との貿易が盛んになった18世紀当時のイギリスは、ヨーロッパからアフリカへ日用品や火器を、新大陸からヨーロッパへ砂糖などを持ち込む大西洋三角貿易において、ほぼ独占的な地位を築いていた。

リヴァプールは、この北アメリカ、西アフリカをむすぶ三角貿易の拠点として中心的な役割を果たし、おもに奴隷貿易で急速に発展した。

三角貿易などを通じて資本蓄積を成し遂げたイギリスは、世界にさきがけて産業革命を進展させた。

こうしたなか、1830年にはリヴァプールと内陸のマンチェスターを結ぶ鉄道が開通し、60年代には鉄道交通の要所となる。綿織物工業が発展していたマンチェスターから運ばれた商品は、この街の港から世界に輸出され、19世紀末にはロンドンに次ぐ「帝国第二の都市」とまで呼ばれるようになった。

シノワズリ(中国趣味)を摸した陶器生産の拠点でもあった。この間、多くの移民が主としてアイルランドから流入し、人口が急増。19世紀にはアメリカとの貿易および客船業務でイギリス第一の港へと成長した。

しかし、最盛期は80万人近い人口を抱え、イギリス有数の工業都市・交易都市として栄えたリヴァプールだったが、第二次世界大戦時にドイツ軍のはげしい爆撃にさらされ、1940年代後半、綿貿易と繊維産業は急速に衰退した。

さらに、1950年代以降イギリス全体が長期の不況に陥るのと並行して急速に斜陽化し、次第にその地位を低下させていった。だが、60~70年代には大規模なスラム浄化と再建計画がはじまり、現在は港湾部の各種施設やビートルズゆかりの建物などを利用した観光に力を入れている。


経済
港では、穀物・食料・木材・非鉄金属・繊維などを輸入し、アイルランド行きの客船もでている。製造業は、医薬品・電気器具・精糖・製粉・ゴム製品などが盛ん。郊外では自動車の生産や精油もおこなわれる。


海港商業都市リヴァプール Liverpool飛行機
ジョン・レノンの名前を冠したリバプール・ジョン・レノン空港が市内にあるが、比較的近郊にあるマンチェスター空港のほうが規模が大きく、同空港からもリヴァプール行きの鉄道やバスが利用できるため、欧州系の航空会社などで日本から同市を訪れる場合には、マンチェスターをとりあえず目指すという方法もある。


鉄道
主な駅としてライム・ストリート駅があり、1時間に1本だが長距離列車でロンドンのユーストン駅まで2時間半。マンチェスターやバーミンガムなど、各地から列車が来る。


バス
ロンドンから5時間。他地域へのバスもある。


教育・文化
リヴァプールにはリヴァプール大学、リヴァプール・ホープ大学、リヴァプール・ジョン・ムーア大学、エッジヒル大学などの教育機関があり、多くの学生が学んでいる。 また、市街の世界遺産を生かして芸術政策にも力を入れており、アルバート・ドックの一部を利用しているテート・リバプールとマージーサイド海事博物館、リヴァプール・ワールド・ミュージアムなど、多くの博物館・美術館がある。このうち、マージーサイド海事博物館はヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つにもなっている


海港商業都市リヴァプール Liverpoolスポーツ
リヴァプールFCの本拠地、アンフィールドリヴァプールFCとエヴァートンFCがこの街をホームとするサッカークラブであり伝統的にライバル関係にある。両者の対戦は「マージーサイド・ダービー」と呼ばれる。 著名な選手としては、リヴァプールはケビン・キーガン、スティーヴン・ジェラード、マイケル・オーウェンら、エヴァートンはゲーリー・リネカーらを輩出している。


リヴァプール出身の有名人
ビートルズ:ジョン・レノン - リンゴ・スター - ポール・マッカートニー - ジョージ・ハリスン & リンゴ・スター
エルヴィス・コステロ(ミュージシャン)
バッドフィンガー:トム・エヴァンズ、ジョーイ・モーランド(ミュージシャン)
サイモン・ラトル(指揮者)
エコー&ザ・バニーメン (ミュージシャン):イアン・マッカロク - ウィル・サージェント - レス・パティンスン - ピート・デ・フレイタス
ザ・ラーズ(ミュージシャン)
クライヴ・バーカー(小説家)
ジョン・ホートン・コンウェイ(数学者)
リズ・マクラーノン(歌手)
アンソニー・シェーファー(劇作家)
ピーター・シェーファー(劇作家)
アンジェラ・バクストン(テニス選手)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』




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キューの王宮植物園群

キューの王宮植物園群

(英名) Royal Botanic Gardens, Kew
(仏名) Jardins botaniques royaux de Kew
登録年 2003年

キューの王宮植物園群 Royal Botanic Gardens, Kew キューガーデン(Royal Botanic Gardens, Kew)はイギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。2003年にユネスコ世界遺産に登録された。

概要
植物園はロンドンの中心部から南西に位置するリッチモンド・アポン・テムズとキューの中間に設けられている。現在の園長はサー・ピーター・クレーン。過去には、サー・ジョゼフ・バンクスやサー・ジョセフ・ダルトン・フッカーなどが園長を務めた。


歴史キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まる。その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズの設計による建築物が何棟か建てられた。そのうちの1つである1761年建造の中国のパゴダは今日も残されている。

ジョージ3世はウィリアム・エイトンやサー・ジョゼフ・バンクスに命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせた。旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて皇室の子供達を育てる施設とした。この建物は現在キュー宮殿として残されている。

1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成した。

キューの王宮植物園群 Royal Botanic Gardens, Kew イギリス植民地政策とキューガーデン
往時のキュー王立植物園は、世界各地から資源植物(人間生活に必要なものを作ることができるとされた植物)を集め、品種改良などをおこなう場でもあった。

イギリス植民地内の各植物園と情報交換などをおこない、それにより、育成条件の合致する植民地に移植してプランテーションでの大量生産を図った。

植民地への移植例としては、

中国産の茶をインドのアッサム地方やスリランカへ
アマゾン川流域産の天然ゴムをマレー半島へ
ポリネシア産のパンノキを西インド諸島へ
マラリアの特効薬キニーネ(キナの樹皮)をペルーからインドへ
などがある。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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ニュー・ラナーク New Lanark

ニュー・ラナークNew Lanark

(英名) New Lanark
(仏名) New Lanark
登録年 2001年

ニュー・ラナーク New Lanark

ニュー・ラナークNew Lanarkはスコットランド・サウス・ラナークシャーの都市ラナークから約2.2 km のところに位置するクライド川沿いの村である。

1786年にデヴィッド・デイル(David Dale)が綿紡績工場や工場労働者用の住宅を建設したことを起源とする。

デイルがその場所に工場を建てたのは、川の水力をうまく活用するためだった。

デイルの娘婿であった博愛主義者で社会改良主義者のロバート・オウエンも名を連ねていた共同所有のもとで、ニュー・ラナークは事業的にも成功を収め、いわゆるユートピア社会主義を体現する存在となった。


ニュー・ラナークの工場は1968年まで操業していた。衰退期を経て、1975年に村の取り壊しを防ぐためにニュー・ラナーク保全トラスト(New Lanark Conservation Trust)が創設された。

2006年現在で村の建造物のほとんどが修繕され、村はスコットランドの観光名所となっている。

この村はまた、スコットランドに4つある世界遺産のひとつであり、ヨーロッパ産業遺産の道のアンカー・ポイントのひとつである。

歴史
ニュー・ラナークの紡績工場は1786年にデヴィッド・デイルによって設立された。デイルはグラスゴーのたたき上げの中産的ジェントリの一人であり、その例に漏れずキャンバスラング(Cambuslang)のローズバンクに避暑地となる土地を持っていた。

そこはターナーをはじめとする多くの画家たちが描いたクライドの滝(Falls of Clyde)から遠くないところにあった。

デイルは工場、土地、村落を19世紀初頭に6万ポンド(20年以上にわたり払い戻し可能)で、義理の息子のロバート・オウエンも名を連ねていた協同組合に売却した。

オウエンは工場労働には義父の博愛主義的なアプローチを維持し、後には影響力のある社会改良主義者となった。

彼の社会福祉プログラムとともに、ニュー・ラナークはオウエン的なユートピア社会主義を体現する存在となった。

ニュー・ラナークの工場群は水力に依存していた。ニュー・ラナークの上流にはダムが建設され、そこから流れ出す水が工場の機械を動かした。

水は最初トンネルを潜り抜け、しかる後に開かれた水路に出て工場ごとに据え付けられた多くの水車を回したのである。そうした光景は、最後の水車が水力タービンに付け替えられた1929年まで見られた。

水力そのものは今でも使われている。新しい水力タービンが第三工場(Mill Three)に据え付けられており、村の観光客向けのエリアに電力を供給するために使われている。
ニュー・ラナーク New Lanark

復元された教室オウエンの時代にはおよそ2500人がニュー・ラナークに住んでいたが、その多くはグラスゴーやエディンバラの救貧院の出身者だった。

労働者たちは群を抜いて過酷な境遇にあったというわけではなかったが、オウエンはその環境に満足せず、労働者たちの改善を決意した。彼は子供たちに格段の注意を払った。

当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らし、町の一角は「ナーサリー・ビルディングス」(Nursery Buildings)と呼ばれていた。子供たちは工場で働いていたが、オウエンは彼らのためにイギリスで初となる幼児学校(infant school)を1816年に創設した。

工場群は商業的に成功したが、オウエンの福利プログラムによって彼のパートナーたちは余計な出費を強いられた。オウエンは旧来の操業に戻すことをよしとせず、パートナーたちの権利を買い取った。

ニュー・ラナークの名声はヨーロッパ中に伝わり、王族、政治家、社会改良主義者らが多く訪れた。

彼らはその清潔で衛生的な工業環境、満足して活力にあふれた労働者、全員が力を合わせて作り上げた成功したベンチャービジネスの姿を目にして驚嘆した。

オウエンの哲学は当時の思想とは対極のものであったが、彼は実際に労働者を劣悪な境遇に置かずとも利益をあげられることを示したのである。

オウエンは訪問者たちに町の優れた住居や公共施設、さらには工場の収益性を示す会計書類を示すことができた。

ニュー・ラナークの工場群は社会改良主義、社会主義、福利厚生などと密接に結びついていたが、同時にそれは18世紀から19世紀にイギリスで興り世界の姿を根底から変えた産業革命を代表するもののひとつでもある。

1825年にニュー・ラナークの経営権はウォーカー(Walker)家に移った。ウォーカー家は1881年までそこを経営したが、その年にバークマイア(Birkmyre)とサマーヴィル(Sommerville)に売却された。彼らとその後継企業は、1968年に工場群が閉鎖されるまで村の経営に携わった。

工場が閉鎖されると人々は離村し始め、建造物群も劣化していった。1963年に住宅組合としてニュー・ラナーク組合(New Lanark Association)が発足し、ケースネス・ロウ(Caithness Row)とナーサリー・ビルディングスの修復が始まったが、工場群をはじめとする産業施設や、デイルやオウエンが暮らした住居群は、1970年に屑鉄企業のメタル・イクストラクション社(Metal Extractions Limited)に売却された。

1974年には村の風化を避けるためにニュー・ラナーク保全トラスト(the New Lanark Conservation Trust, NLCT)が発足し、1983年にはメタル・イクストラクション社に対して産業施設群の修復を目的とする強制収用の命令が適用された。現在、それらの産業施設群は保全トラストの管理下にある。2005年までにほとんどの建造物が修復されたニュー・ラナークは一大観光地となっている。


居住状況
19世紀半ばには家族全員が一部屋の中で暮らしていた。そんな居住条件の感覚は、ブランタイア(Blantyre)のデイヴィッド・リヴィングストン・センター(David Livingstone Centre)を訪れることでいくらか掴むことができる。

ニュー・ラナークを設立したデヴィッド・デイルも、ブランタイアの工場に関わりを持っていた。ブランタイアには居住ブロック(tenement row)が一棟だけ現存しており、博物館として使われている。博物館は専ら1813年にブランタイアで生まれたデイヴィッド・リヴィングストンに捧げられたものではあるが、子供用の脚輪付きベッドなども含めて一部屋での居住状況が再現されているのだ。

この状況はリヴィングストンも知っていたものであり、ニュー・ラナークにも見出されていたものである。デヴィッド・リヴィングストン・センターは、ニュー・ラナークからは道沿いに30kmほどのところにあり、グラスゴーとハミルトン(Hamilton)の間にあたっている。

ニュー・ラナークでの生活状況は次第に改善していき、20世紀初頭までには複数の部屋に住まうようになっていた。1933年までは室内に給水栓や流し台は備わっていなかったが、その年を境に屋外にあった共用トイレも室内のものに取って代わられた。

1898年からは村の経営者は全戸に無料の電力供給を行うようになったが、それは各部屋の蛍光灯一本を点けるのにやっとだった上、毎晩10時には切れた(土曜のみは11時まで)。1955年にニュー・ラナークは英国の送電網(National Grid)に接続された。


今日のニュー・ラナーク
ニュー・ラナークを訪れる観光客は、毎年40万人を超えていると見積もられている。これには、2007年時点でスコットランドには4つしかない世界遺産のひとつと認められていることが大きい。

ニュー・ラナークにはおよそ200人が今でも暮らしている。居住用の建造物の中ではマンティラ・ロウとダブル・ロウのみが修復されている。修復の中にはニュー・ラナーク組合や保全トラストが引き受けたものもある。

ブラックスフィールド・ロウ全体とロング・ロウの大半の修復は、廃屋と化していたそれらを買い取って個人宅として修復した私人たちによるものである。村には20軒の持ち家に加えて、ニュー・ラナーク組合から見逃されている45軒の借家がある。

組合自身も村にはいくつかの建物を保有しているが、ダブル・ロウの修復とマンティラ・ロウの再建をしなかったことを批判されている。

歴史的な真正性を維持するためには多大な労力が投入されている。村内にはテレビアンテナもパラボラアンテナも設置を認められておらず、電話、テレビ、送電といったサービスは埋設ケーブルを通じて行われている。

一貫した外観を呈するために、全ての外装は木造の白塗りで、ドアや窓も一貫したデザインに沿うものとなっている。かつて世帯主は犬を飼うことも禁止されていたものだが、この規制はもはや強制力を失っている。

保全トラストは広告看板を導入したほか、第三工場とエンジン・ハウスをつなぐガラス製の橋を設置したが、こういった代物には批判も寄せられている。村の広場に1924年型の赤い電話ボックスがあるのにも、不適切ではないかと議論がある。

現在、工場群、ホテル、非居住型の建造物の大半は保全トラストが保有・運営している。


建造物群

ニュー・ラナーク New Lanark
ロング・ロウ(左)、ダブル・ロウ(右手前)、ウィー・ロウ(右奥)ブラックスフィールド・ロウ(Braxfield Row)
1790年頃に建設された10軒分の住居ブロック(tenement block)。9軒分は4階建てで1軒のみ5階建てである。すべての住居は持ち家である。

ロング・ロウ(Long Row)
1790年頃に建設された14軒分の住居ブロック。全てが3階建てである。10軒は持ち家だが4件は借家になっている。

ダブル・ロウ(Double Row)
1795年頃に建造された5階建ての住居ブロックでアパートメントが背中合わせに並んでいる。川に面している側はウォーター・ロウとしても知られている。このブロックは現在廃れている。

マンティラ・ロウ(Mantilla Row)
1795年に建造された住居ブロックだが、構造上安全でなくなった時点で廃れてしまった。新しい土台と擁壁は取りつけられたが、再建はされていない。

ウィー・ロウ(Wee Row)
1795年頃に建てられた住居ブロックで、1994年にスコットランド・ユースホステル協会(Scottish Youth Hostels Association)が運営するユースホステルに転用された。

ニュー・ビルディングス(New Buildings)
1798年に建てられた鐘楼付きの4階建てで、現在は博物館や貸アパートが含まれている。かつて労働者を工場に招集した鐘は、現在では毎年大晦日の真夜中に鳴らされている。
ナーサリー・ビルディングス(Nursery Buildings)
1809年建造の3階建ての建物で、現在は貸しアパートに転用されている。かつては工場で働く孤児の収用施設だった。

ケースネス・ロウ(Caithness Row)
1792年建造の3階建ての住居ブロックで、貸しアパートに転用されている。ケースネスはスコットランド高地の地域名で、名前の由来はハイランダーたちが工場の労働者募集に応じる形でここに来たからと考えられている。

村の教会(Village Church)
1898年建設の教会で、現在は社会的な目的のために用いられている。

第一工場(Mill Number One)
1785年に建てられ、1786年3月には操業を開始したが、1788年10月9日に焼失した。現存する建物は1789年に再建されたものである。

この工場は1802年には6556の紡錘を動かす3つの水車を備えていた。1811年には558人(うち女性408人)がこの工場で働いていた。1945年には隔たった2つの最上階ができた。のちに廃れてしまったが、ニュー・ラナーク・ミル・ホテルとして再建され、その営業は1998年に始まっている。

ウォーターハウジズ(Waterhouses)
1階建てと2階建てからなる居住ブロックで、第一工場に隣接している。1799年から1818年頃に建てられた。

第二工場(Mill Number Two)
1788年に建造された工場で、1811年には3つの水車を備え、486人(うち女性283人)が雇用されていた。1884年から1885年にかけてリング・フレームに合わせるために拡張が行われた。この拡張部分は表面がレンガ仕上げになっている村内唯一の建造物である。現在は観光目的に転用されている。

第三工場(Mill Number Three)
もとは1790年から1792年に建てられた工場で、数多くのジェニー紡績機を擁していたことから「ジェニーズ・ハウス」の別名があった。1811年には398人(うち女性は286人)が雇われていた。1819年に焼失した後1826年から1833年に再建され、現在は観光目的に用いられている。この工場には電力供給用の水力タービンも備わっている。

第四工場(Mill Number Four)
1791年から1793年頃に建てられた建造物で、もともとは貯蔵室やワークショップとして使われる一方、孤児たちも収容していた。1883年に焼失したあと再建された。1990年にはファイフのホール・ミル・ファーム(Hole Mill Farm, Fife)から水車が持ちこまれ、敷地内に据え付けられた。

オウエン邸人格形成学院(Institute for the Formation of Character)
1816年に建てられた4階建ての旧学校で、現在は観光と商用目的に利用されている。
ニュー・ラナーク New Lanark

エンジン・ハウス(Engine House)
1881年に人格形成学院に付設された建物で、復元された蒸気機関が置かれている。

学校(School)
1817年建造の3階建てで、現在は博物館になっている。この建物にはかつてスコットランド初の労働者階級の児童を対象とした学校があった。

機械工の作業場(Mechanics Workshop)
1809年に建てられた3階建てで、かつては工場の機械類を設置・維持していた職人たちが住んでいた。

染物工場(Dyeworks)
建設時期未詳の建物。元々は真鍮や鉄の鋳造所だった建物で、水車も備えている。現在は店舗や観光案内所が入っている。

八角塔を備えたガス工場(Gasworks with octagonal tower
1851年以前に建てられた工場で現在は店舗が入っている。

オウエン邸(Owens House)
1790年に建てられた住居で現在は博物館になっている。

デイル邸(Dales House)
1790年に建てられた住居で現在は出版業者のウェイヴァリー・ブックス(Waverley Books)が入っている。

ミル・レイド(Mill Lade)
工場設備の動力となる水力をクライド川から調達するために掘られた物

墓地(Graveyard)
墓地は村と観光客用の駐車場の間にあたる、丘の上にある。初期の村人たちの多くがここに葬られた。

観光
ライド滝自然保護区のための案内所村外れには観光客用の巨大な無料駐車場がある。2kmほど離れたラナークからはバスが運行している。ラナークとグラスゴーの間には30分に1本の割合で鉄道が運行している。

村には保全トラストが運営する三ツ星ホテルであるニュー・ラナーク・ミル・ホテルがあるほか、ユースホステルなどもある。村内には観光案内所、店舗、レストランなどもそろっている。

村には長く続くクライド遊歩道(Clyde walkway)が通っており、工場建築物群の中には、クライド滝自然保護区(the Falls of Clyde Nature reserve)のためにスコットランド野生生物トラスト(Scottish Wildlife Trust)が運営している案内所もある。


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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ドーセットと東デヴォンの海岸

ドーセットと東デヴォンの海岸

(英名) Dorset and East Devon Coast
(仏名) Littoral du Dorset et de l'est du Devon
登録年 2001年

ドーセットと東デヴォンの海岸

ジュラシック・コースト
ジュラシック・コーストは、イングランド南部のイギリス海峡にある海岸である。一帯は、デヴォン州東部のエクスマウス(Exmouth)近郊のOrcombe Pointから、ドーセット州東部のスワネイジ(Swanage)近郊のオールド・ハリー・ロックス(Old Harry Rocks)までのおよそ153 km にわたってのびている。

2001年にイギリス本土ではジャイアンツ・コーズウェーに次いで2例目となるユネスコの世界自然遺産に登録された。登録名は「ドーセットと東デヴォンの海岸」である。登録対象全域にわたってサウス・ウェスト・コースト・パス(South West Coast Path)の上を歩いていける。

地学的特質
ジュラシック・コーストは、中生代にあたる三畳紀、ジュラ紀、白亜紀の断崖で構成されており、1億8000万年もの地質学的な歴史を刻んでいる。

ドーセットと東デヴォンの海岸

一帯には多くのユニークな地形が含まれ、ダードル・ドア(Durdle Door)のナチュラル・アーチ(natural arch)、ラルウォース・コウヴ(Lulworth Cove)の入り江や褶曲、ポートランド島(Isle of Portland)など、様々な地形の素晴らしい例を提示している。

チェシル・ビーチ(Chesil Beach)は、トンボロと暴風海岸(storm beach)の好例である。その多様な地質学的特質から、この場所は国際的な地質調査の対象となっている。

同時に、この地は古生物学者メアリー・アニングの活動拠点だった場所でもある。彼女は、ライム・リージス(Lyme Regis)周辺の海岸線の化石を調査し、イクチオサウルスの完全な骨格標本を初めて発見した。

ジュラシック・コーストの最高地点は、ゴールデン・キャップ(Golden Cap)で海抜 191 m である。

歴史
第二次世界大戦中には、ジュラシックコーストのいくつかの区画が当時の陸軍省の管轄に置かれた。

イギリス海軍の最大級の拠点の一つは、ポートランド・ハーバー(Portland Harbour)にあった。ボヴィントン(Bovington)の主要な軍事拠点は今でも使われており、ジュラシック・コーストの一部区域は立ち入りが制限されている。他方で、かつて軍用拠点だった区画には、民間の管轄に戻されたものもある。

特にポートランド周辺に顕著だが、一帯には海上の難所があり、難破船はこの一帯の歴史叙述ではおなじみのものである。2007年1月にもコンテナ船のMSCナポリがシドマス(Sidmouth)付近のブランスコーム(Branscombe)で浜に乗り上げ、多くの油と積荷が流出したことによって、環境に大きな被害をもたらした。ドーセットと東デヴォンの海岸

この地域は、イギリスのテレビ番組『自然の七不思議』(Seven Natural Wonders)では、イギリス南西部の不思議(驚異)の一つとしてとりあげられた。また、『ラジオ・タイムズ』誌(Radio Times)が2005年に行った読者投票では、ジュラシック・コーストはイギリスの自然の驚異第五位に選ばれた。


玄関口にあたる町

ライム・ベイ
ダードル・ドアウェスト・ベイ(West Bay)は、ジュラシック埠頭(the Jurassic Pier)が2004年に完成したことで一帯の玄関口として大きな担えるようになった。

世界遺産登録地域の中心近くに位置するウェーマス(Weymouth)も、玄関口にあたる町としては重要である。この町には2011年までに世界遺産センターが建てられる予定である。

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ダーウェント峡谷の工場群

ダーウェント峡谷の工場群


(英名) Derwent Valley Mills
(仏名) Usines de la vallée de la Derwent
登録年 2001年

ダーウェント峡谷の工場群は、イギリスのダービーシャー州ダーウェント川(River Derwent)沿いにある世界遺産である。ミル(Mill)ともいう近代的な工場は、リチャード・アークライトが発展させた綿紡績のための新技術に適応すべきものとして、この地で生まれたのである。

ダーウェント峡谷の工場群

1769年にアークライトの発明した紡績機は、先行するジェニー紡績機をさらに発展させたものであり、水車を動力源としていたことから川沿いに設置することが必要だった。

こうして設置されていった工場群は、産業革命の最も初期の工場群として、現代の機械制大規模工場生産の淵源となった。

なおかつ、農村の景観に工業設備群が組み込まれるということは、工場労働者たちの住居の建設にもつながった。立地条件の悪さから、労働者の雇用に配慮する必要があったためである。

こうした動きが、単に歴史的な価値だけでなく、この地に独特の産業景観を生み出すことにもなったのである。

ダーウェント峡谷の工場群

登録対象
世界遺産は、クロムフォード(Cromford)、ベルパー(Belper)、ミルフォード(Milford)、ダーリー・アベイ(Darley Abbey)、ジョン・ランブ(John lambe)の工場群が対象となっており、867件のlisted buildingsを含んでいる。さらに9つの建造物は、Scheduled Ancient Monumentsである。

リチャード・アークライトのマッソン・ミルにある労働繊維博物館(the Working Textile Museum at Richard Arkwright's Masson Mill)には、約68万もの糸巻きが展示されている。

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ソルテア

ソルテア(Saltaire)

(英名) Saltaire
(仏名) Saltaire
登録年 2001年


ソルテア(Saltaire)
ソルテア(Saltaire)は、イングランドのウェスト・ヨークシャー州ブラッドフォードにあるヴィクトリア時代のモデル・ヴィレッジ(model village)である。エア川とリーズ・リヴァプール運河(Leeds and Liverpool Canal)の流域にある。この町はユネスコの世界遺産登録物件であると同時にヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つでもある。

歴史
ソルテアは開明的な産業家サー・タイタス・ソルト(Titus Salt)によって1853年に建設された。ソルテア(Saltaire)という町の名前はソルト(Salt)とエア川(Aire)を組み合わせたものである。彼はブラッドフォードで5つの工場を経営していたが、それらを全てこの地に移転・集約した。その目的には労働者たちの処遇をブラッドフォードでのものよりも向上させる事や、運河や鉄道による地の利を活かして巨大な繊維工場を作る事が含まれていた。彼は建築業者として、ブラッドフォードのロックウッド・モーソン社(Lockwood and Mawson)を雇った。

類似の計画は、同じウェストヨークシャー州内のコプリー(Copley)ではエドワード・アクロイド(Edward Akroyd)によって数年早く開始されていた。また、ソルテア同様世界遺産になっている綿製糸工場の村ニュー・ラナークは、もっと早く1786年にデヴィッド・デイルによって建設されていた。

ソルトはブラッドフォードのスラムよりもずっと上質な小綺麗な石造家屋を労働者たちのために建ててやり、水道のある洗濯所、浴場、病院なども建てた。さらに、図書館や読書室、コンサートホール、ビリヤード場、科学的な研究室、スポーツジムなどを備えた娯楽・教育施設も建て、施設救貧院、村民向けの菜園、公園、ボートハウスなども整備した。


会衆派教会 (1856-59)
ソルテア 会衆派教会
タイタス・ソルトは1876年に歿し、会衆派教会に敷設された霊廟に葬られた。さらにソルトの息子も亡くなると、村はパートナーシップに引き継がれた。そのパートナーシップには、ホワース(Haworth)出身で12歳から村の工場で働いていたジェイムズ・ロバーツ(James Roberts)も含まれていた。

彼は毎年ロシアに行き、ロシア語に堪能だった。彼はソルテアを保有することになったが、ロシアに過剰に投資していたため、ロシア革命でいくらかの損害を蒙った。また、彼はリーズ大学にロシア講座を寄贈した。彼はT・S・エリオットの詩『荒地』(The Waste Land)でも言及されており、没後イーストサセックス州のフェアライト(Fairlight)に埋葬された。


今日のソルテア
2001年12月にソルテアはユネスコの世界遺産に登録された。これはつまり政府がソルテアの保全の義務を負ったということである。

村は確かにかつての姿を十全に保ってはいるが、エア川の渓谷は東西交通の要路であることから、交通量の多さによって所々傷んでいる部分もある。また、蛮行によって荒らされた公園の修復も要請されている。

村の建造物群は個別に重要文化財建築(listed buildings)に登録されており特に会衆派教会の教会堂は保護レベルが最高(グレード1)になっている。ソルテア自体も当然、保全地域(Conservation Area)である。

かつて娯楽・教育施設だった建物はヴィクトリア・ホールと改称され、ヴィクトリア朝リード・オルガン博物館(Victorian Reed Organ Museum)がホール内に開設されているほか、集会、コンサートなどに使われている。

ソルテア・フェスティヴァル(en:Saltaire Festival)も開催されている。これはもともとソルテア開村150周年を記念して2003年に開かれたものだが、以降毎年9月に11日にわたって行われている。


バイパス案
ソルテアは他の世界遺産物件などと同じく、世界遺産としての空間的コンテクストを守るために、周辺に緩衝地域(バッファー・ゾーン)が設定されている。

しかし、この緩衝地域を通るバイパスの計画がブラッドフォード議会とアクション・エアデイル(Action Airedale)から発表された。あわせてソルテアの村自身に似つかわしくないトンネルを掘ることも発表された。

ミルからの見晴らしの範囲内で、トンネルに敷設された鉄道が走り、会衆派教会の裏手から出てくることになるのである。そして鉄道はリーズ・リヴァプール運河を並走し、保全地域に大きなインパクトを与える可能性が高い。

計画されているルートは、古い半自然の森林庭園やナブ・ウッド墓地の森林庭園にも影響を及ぼすことになる。


今日のソルツ・ミル
ソルツ・ミル(Salts Mill)は1986年に操業を停止し、翌年に複合施設として生まれ変わった。現在は商業、レジャー、居住用などが組み合わさっている。メインの建物に入っているのは以下のものである。

1853ギャラリー(The 1853 Gallery
いくつもの大部屋に、ソルテア生まれの芸術家デイヴィッド・ホックニーの絵画、図面、フォトモンタージュ、舞台セットなどが展示されている。

2006年には書店、宝石店、アンティークショップ、紳士服店、自転車屋などがあった。また、アルヴァ・アールトやフィリップ・スタルクが手がけた品物を扱う家庭用品店などもあった。

レストランや喫茶店
運河をはさんだ向かい側には地元の国民健康サービス(National Health Service Trusts)の事務所と居住区画に分かれている「新工場」(The "New Mill")がある。


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ブレナヴォンの産業景観

ブレナヴォンの産業景観

(英名) Blaenavon Industrial Landscape
(仏名) Paysage industriel de Blaenavon
登録年 2000年


ブレナヴォン(Blaenavon, ウェールズ語 : Blaenafon)は、ウェールズ南東部にある町で、その産業景観は世界遺産にも登録されている。ポンティプールの北にあるAfon Llwyd川の源流に当たる丘の中腹に位置し、人口は6349人(調査時点不明)である。




鉱工業の町
スウェーデンに見られるブレナヴォン製の線路ブレナヴォンは1788年に始まった製鉄業で成長した町である。その遺構の一部は博物館になっている。製鋼と炭鉱が続いて成長して町も賑わい、一時は町の人口が2万人を超えていた。しかし、1900年に製鉄業が終焉を迎え、1980年には炭鉱も閉山された結果、町は衰退し、失業率の高まりと人口の高齢化が進んでいる。

街の観光名所には、ビッグ・ピット国立石炭博物館(Big Pit National Coal Museum)、ブレナヴォン製鉄所(Blaenavon Iron Works)、ポンティプール・ブレナヴォン鉄道(Pontypool and Blaenavon Railway)のほか、ブレナヴォンの歴史的に重要な山々にある古い作業場群などがある。



ビッグ・ピット
ビッグ・ピット国立石炭博物館は、ヨーロッパ産業遺産の道のアンカーポイントの一つである。1980年に炭坑が閉山されたあと、1983年に観光客向けの体験型の博物館として再出発した。観光客はかつて使われていた姿をとどめている坑道を、鉱夫に扮して見学することができるようになっている。観光用の坑道としてはイギリスで最大級である。

観光客が多く訪れる観光地になっており、町には経済効果も大きいが、開設当初見こまれていた雇用創出効果は極めて限定的である。


古書の町
ブレナヴォンの古書店街炭鉱閉山後の衰退の中で、ヘイ=オン=ワイに続いてウェールズで二番目の古書店街になろうという試みも行われた。しかし、それによって観光客を呼び込もうという狙いはうまくいっていないようである。これは辺鄙な場所に立地していることなどに起因している可能性がある。



とはいえ、地元の関心と投資は、町の大通りをかつての姿から一変させたし、潰れずに残っている数少ない古書店には、質の高い稀覯本の在庫がある。


コミュニティ
町には多くの活気のあるコミュニティ・グループがあり、例えばその一つであるフューチャー・ブレナヴォンは、町の麓にコミュニティ・ガーデンを作る手助けをしている。


『タイム・チーム』の発掘
チャンネル4の歴史・考古学系のテレビ番組『タイム・チーム』(Time Team)が2001年2月放送分でブレナヴォンを扱った。テーマは「失われた高架橋」を探すというものだった。この橋は世界最初の鉄道高架橋で、鉱石を積んだ荷車を馬が牽いていたという。

これは1790年に建造された全長40m、高さ10mの橋だったが、25年のうちに消え失せてしまった。取り壊されたという記録はないことをもとに、取材グループは場所の特定を進めると同時に、まだそこにあるかどうかを確かめようとした。

この結果、調査最終日にあたる3日目の午後遅くに、土と瓦礫の12m-15m下に、丸天井を備えた高架橋の上端が姿をあらわし、まだ建ったまま埋もれているらしいことを窺わせた。

しかし、発見が最終日遅くだったこともあり、安全上の理由から、グループはそれ以上掘り進むことはできなかった。とはいえ、この発見は今後本格的な発掘が行われたときにはより大きな成果をあげられることを意味している。


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バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群

バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群

(英名) Historic Town of St. George and Related Fortifications, Bermuda
(仏名) Ville historique de St George et les fortifications associées, aux Bermudes
登録年 2000年


セント・ジョージ港
バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群

セント・ジョージ (St. George's、公式にはTown of St. GeorgeまたはSt. George's Town)は、バミューダ諸島のバミューダ島にある町。バミューダ諸島中最初に定住が進められた町であり、今日でもアメリカ大陸最古のイギリス植民地とされている。

セント・ジョージに初めて定住が始まったのは、最初のイングランド人植民者がバミューダへやってきてから3年後の1612年だった。

イングランド人植民者たちはバージニア植民地(現在のアメリカ合衆国バージニア州)へ向かう途上、乗っていたシー・ヴェンチュア号が慎重に珊瑚礁内を進んで到達したセント・ジョージズ島へ降り立った。

植民者たちはイングランド海軍提督ジョージ・ソマーズと陸軍大将トーマス・ゲイツ(バージニア植民地の町ジョージタウンの知事)に率いられた。生存者たちは新たに2隻の船をつくり、ほとんどの人々がジョージタウンを目指して旅を続けたが、バージニア会社は島の所有を主張した。

そのときにシー・ヴェンチュア号から残った3人の男性たちと、後から60人の新たな植民者集団が加わり、隣のセント・デイヴィッズ島での悲惨な時期の後、悪天候時には船を守っておける避難所となる入り江にセント・ジョージの建設を始めた。


ステイト・ハウス
バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群
1620年から、首都がハミルトンへ移転する1815年までバミューダ議会が置かれていたこの小さな町は歴史的に無視できない重要な場所とされる。

バミューダの歴史のみならず(1815年までバミューダの首都であった)、アメリカ合衆国を形作るのを助ける中枢の役割を演じた。アメリカ独立戦争中、バミューダ住民は弾薬庫から必要とされた火薬を盗んでいた(弾薬庫はセント・ジョージを防衛する近隣の砦に供給されたもの)。

当時バミューダ島北端の町トバッコ・ベイからジョージ・ワシントンの元へ密輸されていた。彼らはおそらく、セント・ジョージを拠点とする貿易をしていた荒廃したアメリカ連合国へ軍需品供給をして、南北戦争を長引かせた。


セント・ピーターズ教会
バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群

現在、セント・ジョージの歴史文化財は基本的に首都ハミルトンの経済発展によって手つかずのままである。

建物のほとんどは17世紀から19世紀にかけ建てられたもので、名士たちは後世の変化のあらゆるしるしを隠し、町の景観を破壊しかねない発達を妨げる熟考した上の努力を行ってきた。

例えば、電気やガスの配管、電話線などは地中に埋設され、街灯は町が栄えた時代の様式を採用している。バーバーズ・アレイやアント・ペギーズ・レーンなどの狭い通りは、数世紀前の姿をとどめている。

セント・ジョージには無駄な遺物はない。しかし、生活者の町であり、歴史的な建築物の機能は博物館のみならず、住居、レストラン、パブ、そして商店となっている。中心部のキングズ・スクエアでは、タウン・ホールと観光サービス局が側に立つ。

ステュアート・ホール
バミューダ島の古都セント・ジョージと関連要塞群

広場にはさらし台のレプリカ、そしてかつて港へ醜聞の渦中の女性を沈めるのに使用されたという水責め椅子のレプリカがある。現在、地元ボランティアたちはこの風変わりな処罰を復活させようとしている。

セント・ジョージ港内にあるオードナンス島はキングズ・スクエアの南に位置し、小さな橋で結ばれている。

そこには難破船に乗員たちによってつくられた2隻の船の一つデリヴァランス号の模型があり、彼らを指揮したジョージ・ソマーズの等身大ブロンズ像がある。

町周囲の場所と同じく、オールド・ステイト・ハウス(1620年に建てられた最初の石造りの建物。バミューダ議会が置かれており諸島最古の建物である)のような多くの歴史的な場所がある。

未完成の教会ではオールド・レクトリー、セント・ピーターズ教会(西半球最古のイギリス国教会の教会)、タッカー・ハウス、バミューダ・ナショナル・トラスト博物館がある。

1996年、セント・ジョージはジョージ・サマーズ卿の生誕地ドーセット州ライム・レジスと姉妹都市協定を結んだ。

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オークニー諸島のスカラ・ブラエ遺跡群

オークニー諸島のスカラ・ブラエ遺跡群

(英名) Heart of Neolithic Orkney
(仏名) Coeur néolithique des Orcades
登録年 1999年


オークニー諸島 (Orkney Islands)
オークニー諸島 (Orkney Islands) は、イギリス・スコットランド北東沖に位置する諸島。グレートブリテン島とは最狭部で幅10キロメートルのペントランド湾(Pentland Firth)によって分かれている。人口は19,800人(2006年現在)。
オークニー諸島のスカラ・ブラエ遺跡群
州都はメーンランド島中央部のカークウォール(Kirkwall)で、市内にはノルマン風のセント・マグナス大聖堂(St. Magnus Cathedral)がある。




地理
大小約70の島からなり、
メインランド島(Mainland)主島
ホイ島(Hoy)
サンデー島(Sanday)
ウェストレー島(Westray)
など約20の島に住民がいる。総面積は974平方キロメートル。

ホイ島を除いて全般に低平で、肥沃な砂質ロームが覆っていて、気候も海洋性の温和な気候で農業に適している。


歴史
オークニー諸島のスカラ・ブラエ遺跡群
メーンランド島にはオーストラリアの考古学者ゴードン・チャイルド(Vere Gordon Childe)が調査を行ったスカラ・ブラエ(Skara Brae)など新石器時代の遺跡があり、ユネスコ文化遺産に登録されている。

鉄器時代にはピクト族が定住していた。ローマ時代にはオルカデス (Orcades) と呼ばれていた。

875年から1231年まではノルウェー国王下のバイキング領主が支配した。その後、デンマーク王クリスチャン1世(ノルウェー・スウェーデンの王も兼ねる)の王女マーガレット・オブ・デンマークがスコットランド王のジェームズ3世に嫁ぐ際の持参金代りにスコットランド領となった。

第一次世界大戦、第二次世界大戦中は諸島内にあるスカパ・フローに英海軍の艦隊基地がおかれた。

オークニー諸島のスカラ・ブラエ遺跡群

経済
肥沃な土地と温和な気候を利用して集約的農業が営まれ、肉牛、鶏卵、羊毛、大麦などをイギリス本土へ送り出している。漁業はエビが中心で、海草加工やウィスキー醸造もみられる。

20世紀末には北海のパイパー油田(Piper oilfield)からのパイプラインが南部のフロッタ島(Flotta)まで建設され、石油基地となっている。


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マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)

マリタイム・グリニッジ

(英名) Maritime Greenwich
(仏名) Maritime Greenwich
登録年 1997年

マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)は大ロンドン南東部の町で、グリニッジ・ロンドン特別区のテムズ川南岸に位置している。グリニッジ標準時の基準となる都市として、また「マリタイム・グリニッジ」(海事都市グリニッジ、河港都市グリニッジ)の名でユネスコの世界遺産に登録されている由緒ある港町として、よく知られている。

発音
伝統的なイギリス英語では「グリニッジ」(['ɡɹɪn.ɪdʒ], "GRIN-idge") だが、現在は「グレニッチ」(['ɡɹen.ɪtʃ], "GREN-itch") が通用している。ただし、地元では「グレニッジ」(['ɡɹen.ɪdʒ], "GREN-idge") や「グリニッチ」(['ɡɹɪn.ɪtʃ], "GRIN-itch") も代替可能な発音として受け容れられている。ただし、アメリカの地名では一般的な「グリンウィッチ」(['ɡɹɪn.wɪtʃ], "GRIN-witch") という発音は、この都市の発音としては不適切と見なされている。

マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)地理
グリニッジは北緯51° 28' 38"、経度0º 0' 0"に位置している。

観光名所
水運と密接に結びついてきたグリニッジの歴史的建造物群は、世界遺産に登録されている。

グリニッジ天文台がある都市としてよく知られており、この天文台をグリニッジ子午線が通っている。かつて、協定世界時に置き換えられるまでは、グリニッジ天文台での時間計測に基礎を置いたグリニッジ標準時が用いられていた。グリニッジはもはや実用的な天体観測を主導する場ではないけれども、いまなお報時球は正確に午後1時を知らせるし、町にはジョン・ハリソンの海事クロノメーターをはじめとする天文学や航海術に関する道具を集めた博物館もある。

天文台は、プラセンティア宮殿の敷地を利用したグリニッジ公園内にある。公園にはイニゴー・ジョーンズ作のクイーンズ・ハウスを含む国立海事博物館 (National Maritime Museum) があり、全ての建築物は自由に訪れることが出来る。

旧王立海軍大学 (The Old Royal Naval College) は、クリストファー・レンの手がけた丸天井付きの傑作で、世界遺産登録地の中央に位置している。ここはグリニッジ財団 (the Greenwich Foundation) が管理しており、毎日訪問者に無料で開放されている。旧大学内のいくつかの建造物はグリニッジ大学に貸されているが、the King Charles blockは、Trinity College of Musicに貸されている。また、ジェイムズ・ソーンヒル (James Thornhill) が塗装したペインティド・ホール (Painted Hall) やセント・ピーター、セント・ポール両礼拝堂(後者の内装はJames Athenian Stuartが手がけた)も、毎日グリニッジ・ヴィジター・センターからガイド付きツアーが出発している通り、一般に開放されている。

マリタイム・グリニッジ(Maritime Greenwich)グリニッジには扇を集めた世界唯一の扇博物館 (Fan Museum) があるのも特徴的である。この博物館はクルームズ・ヒル10番地から12番地にあり、同じクルームズ・ヒルには、ネヴァダ・ストリートの交差点の角にグリニッジ劇場 (Greenwich Theatre) がある。グリニッジには劇場が二つあるが、もうひとつはグリニッジ・プレイハウス (en:Greenwich Playhouse) である。

クリッパーの「カティーサーク」は川沿いの乾ドックで保存展示されている。2006年から帆船の大規模な保存プロジェクトが始動し、2008年9月に終了する予定であった。しかし2007年5月21日に火災事故が発生、現在復元の見通しは立っていない。現在船や周辺にアクセスすることは、修復の都合で制約されるが、それはこのサイト(外部リンク)で確認が取れる。そのそばには、長い間、フランシス・チチェスター (Sir Francis Chichester) が226日間世界一周(1966年 - 1967年)を行ったケッチである「ジプシー・モス4世号」(Gipsy Moth IV) も展示されていたが、第二の航海歴を積み重ねるための大規模な修繕のために2004年に移送された。

カティーサークのそばには、テムズ川の北側のアイル・オブ・ドッグズ (Isle of Dogs) へ行くための歩行者用のトンネル「グリニッジ・フット・トンネル」(Greenwich foot tunnel) がある。トンネルの北側の出口はアイランド・ガーデンズ (Island Gardens) にあり、そこからはカナレットが描いたグリニッジ病院の有名な眺めを望むことが出来る。病院の北西の角の前の川沿いに、北極探検者のジョゼフ・ルネ・ベロー (Joseph René Bellot) を記念するオベリスクが立っている。

ミレニアム・ドームは、グリニッジ半島のブリティッシュ・ガスの使われなくなった敷地に建てられた。これは地下鉄のノース・グリニッジ駅に隣接し、グリニッジ中心街からはおよそ5kmのところにある。ドームの南には、都市の再開発地区であるグリニッジ・ミレニアム・ヴィレッジ (Greenwich Millennium Village) が存在する。

都市中心部の西側に建っているのがセント・アルフィージ教会 (St Alfege's Church) である。この教会が建っている場所は、1012年にカンタベリー大主教アルフィージが殺害された場所であり、現在の教会は1714年に建築家ニコラス・ホークスムーア (Nicholas Hawksmoor) が手がけたものである。

都市中心部では、週末にはグリニッジ市場 (Greenwich Market) が多くの観光客で賑わう。


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ゴフ島とイナクセシブル島

ゴフ島とイナクセシブル島
(英名) Gough and Inaccessible Islands
(仏名) Iles de Gough et Inaccessible
登録年 1995年
拡張年 2004年

ゴフ島(Gough Island)
ゴフ島とイナクセシブル島ゴフ島(Gough Island)
とは南大西洋にあるイギリス領の火山島で最高峰はエディンバラ山(910m)。セントヘレナ属領。 トリスタン・ダ・クーニャの350km南東、南緯40度21分、西経09度53分に位置する。定住者はおらず、1956年からイギリスや南アフリカが維持している気象観測所の職員がいるだけである。

したがって、正式には無人島としての扱いである。1995年に単独でユネスコ世界遺産に登録された(核心地域は65 km²)。2004年には、近くのイナクセシブル島が拡大登録された。

歴史
1675年にポルトガル人ゴンサロ・アルバレスにより発見され、ディエゴ・アルバレス島と命名された。

1731年にイギリス船リッチモンド号のチャールズ・ゴフ船長に再発見され、後にイギリスとアメリカのアザラシ猟の猟船が1804年に島に着き、猟師からゴフ島と呼ばれるようになった。クジラやアザラシを捕獲するため島に滞在する事はあったが、長く定住した者は居なかった。

1811年以来には科学者が島に周期的に訪問している。permenant研究の基盤は1955年にイギリスの科学者によって最初に確立された。 ゴフ島は1938年にイギリスの領域になり、イギリスの規則の下に形式的にまだある。


イナクセシブル島(Inaccessible Island)
イナクセシブル島(Inaccessible Island)
とは南大西洋に浮かぶイギリス領土セントヘレナに属するトリスタン・ダ・クーニャ諸島にある小島で、「近寄りがたい島」を意味する。

トリスタン・ダ・クーニャ島から南西32Kmに位置する面積14km2の火山性の島で、2004年に、ユネスコ世界遺産に登録されていた近隣のゴフ島を拡大登録する形で、自然遺産として登録された。

ゴフ島とイナクセシブル島歴史
1652年オランダ船t'Nachtglasにより発見され、その船に因んでイナクセシブル島と命名された。

1816年トリスタン・ダ・クーニャ島に駐留していたイギリス駐留隊は島から撤退したが、駐留隊員の一人ウィリアム・グラス伍長は彼の家族と共にトリスタン・ダ・クーニャ島に残り家畜をしながら家族と共に暮らした。その時、家畜のヤギやブタもイナクセシブル島に導入された。

1871年10月にドイツのストルテンホフ兄弟がイナクセシブル島に住み着いた。ストルテンホフ兄弟はプロイセンの軍隊からの排出にアメリカの捕鯨船に乗り込み、この船によってイナクセシブル島に着いた。

捕鯨船は捕鯨を続けるため南に進む間に、ストルテンホフ兄弟は島でアザラシ狩り業を作るため3ヶ月間、島に残ることに同意した。

しかし不運にもストルテンホフ兄弟はすぐに彼らのボートを失い、3ヶ月過ぎても捕鯨船は戻ってこなかった。島に食料となる様な物はほとんどなかったがストルテンホフ兄弟はかつてグラスが家畜のため島に放したヤギやブタを食料にして何とかどうにか生活していた。

結局ストルテンホフ兄弟は1873年島に来たイギリス海軍チャレンジャー6世号(H.M.S.Challenger Ⅵ)により救助され島から去った。

1938年にノルウェーの科学探険隊は島に3週間過ごし、島の植物や鳥および石の広汎な標本を作った。農場として島を開発する計画があったが、第二次世界大戦後、その開発計画は駄目になり、島独特の豊かな植物や動物を存続を保障するようになる。

1962年トリスタン・ダ・クーニャの会社が島の地図を描くためにイナクセシブル島に科学者を上陸させ探検を行った。 不運にも科学者は島の内部に得てなかった。 船からの島の地図を描く代わりとなる試みはまた余分な雲量のために失敗した。

島の最も正確な科学的な調査はイギリスのデンストン大学から島に航海して来た教師と男の生徒で1982年10月25日に島に上陸し、1983年2月9日に島から去るまで、島で詳しく述べられ、その間に詳しく地図を描き作り、植物や動物群は調査され、イナクセシブル島の地質学は調査された。デンストン大学によるイナクセシブル島の調査は他のどの探険よりも貢献した。


地形
火山性で島の海岸は険しい断崖絶壁が多く多岩の島である。トリスタン・ダ・クーニャ島民や科学者が時折島に訪れる以外は無人島である。面積14km2、島の最高峰は561m。

島独特の豊かな自然があり、3000羽以上の野生の海鳥が生息している。トリスタン・ダ・クーニャ島民の宣教師ロジャースが島に訪問した時、世界で最も小さな飛べないクイナ科の鳥を発見した。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』





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エディンバラの旧市街と新市街

エディンバラの旧市街と新市街

(英名) Old and New Towns of Edinburgh
(仏名) Vieille ville et Nouvelle ville d'Edimbourg
登録年 1995年

エディンバラの旧市街

エディンバラの旧市街と新市街エディンバラ旧市街 (The Old Town of Edinburgh)は、スコットランドの首都エディンバラの一部。UNESCO世界遺産に登録されている。中世の都市図とスコットランド宗教改革時代の建物が多く残る。

一端はエディンバラ城と主要な幹線であるロイヤル・マイル、実際には4つに区別される通りであるキャッスルヒル、ローンマーケット、ハイ・ストリート、そして現在廃墟となっているホリールード寺院へつながるカノンゲイトによってふさがれる。狭いクローゼス(closes、小路)はしばしば数フィートの幅しかなく、ヘリンボーン模様(矢はず模様とも)の主な背骨のどちらの側にも下り坂へつながる。セント・ジャイルズ大聖堂やスコットランド最高裁判所のような主要な公共建築物または市場のある場所は、大きな広場のそばである。

スコットランド議会ビル、ホリールード宮殿、スコットランド教会ゼネラル・アッセンブリー・ホール、スコットランド・ロイヤル・ミュージアム、サージェオンズ・ホール、エディンバラ大学といった有名なものが旧市街にあり、おびただしい数の地下道と地下室、以前の建設過程の遺物などがある。通りの配置は北ヨーロッパ諸都市の旧地区の典型であり、エディンバラには岩山の上にそびえる城、死火山の名残などがあるため非常に絵画的であり、主な通りが山のうねの上から下ってゆく。

都市の地形図は『クラグ・アンド・テイル』(Crag and tail、平地にそびえる岩山や丘と漸減する斜面のこと)は後期氷河期につくられ、大地との間の氷河が刻んだ痕跡がおぼろげになり柔らかな土壌を押し出したときに誕生した。しかし、火山性岩の堅い貝砂層によって裂かれた。丘の上の険しい岩は都市の最初に発展した部分で、要塞化されすぐに現在のエディンバラ城となった。 都市のその他の残りは、城のある岩山から平地へとゆっくりと広がっていった。これは南部の湿地帯と北方のノール湖を伴う容易に防御可能な地となった。主な道から居住区へアクセスするのはたくさんの門と市壁を通らなければならないことで制限が加えられていた。市壁は唯一断片的に残る場所がある( フロドゥン壁など)。

斜面の狭さにより空間の制限が強いられたため、旧市街は初期の高収入者の一部の住居建築が並んでいた。多階住居は1500年代より後から規準となった。1700年代の旧市街はおよそ80,000人の人口を抱えていた。しかし、さらに近代へむかうとわずか4,000人にまで劇的に減った。最近は旧市街のあらゆる場所におよそ20,000人が住んでいる。長い間住民は防護壁外側に住居が建てられるのは気が進まず、住居の必要性への訴えが増加するにつれ建物はより高くなる傾向にあった。悲劇的なことに、これらの建物の多くは1824年大火で破壊された。元々の基礎の上に再建された建物は地面の高さを変えることになり、多くの通路と旧市街地下の地下室がつくられることになった。

2002年12月7日、旧市街で起きた火事にカウゲイトの一部が飲み込まれた。有名なコメディー・クラブ『ザ・ギルデッド・バルーン』や、包括的な人工知能図書館を含むエディンバラ大学情報科学学部の大半が破壊された。

エディンバラの新市街

エディンバラの旧市街と新市街エディンバラの新市街は、スコットランドの首都エディンバラの街区で、中心地区の一つである。この新市街はしばしば都市計画の傑作と評されており、旧市街ともどもユネスコの世界遺産に登録されている。いまなお「新」市街と呼ばれるものの、建設されたのは1765年から1850年ころのことで、界隈には当時の新古典主義様式の建築物が残っている。

最も有名な街路は、エディンバラ城や旧市街に面しているプリンスィズ・ストリートであり、それはかつてノア・ロック(Nor Loch)のあった窪地を横切っている。

新市街建設の準備
新市街を建設するという決定は、旧市街の城壁内の人口が飽和状態になったあとに、町の長老たちによって下された。啓蒙主義はエディンバラにも到達し、町に住んでいた近代的な知識人たちにとって、時代遅れの町並みは不釣合いなものになっていた。市長(Lord Provost)であったジョージ・ドラモンド(George Drummond)は、勅許自治都市(Royal Burgh)の境界をノア・ロックの北を取り囲む形で拡張することに成功した。ノア・ロックは都市のすぐ北の渓谷を占めていたひどく汚れていた湖のことである。ノア・ロックの排水作業は実行に移されたものの、1817年までは完了しなかった。

新しい土地に渡るためのポイントが建設され、1772年にはノース・ブリッジができ、そして新市街の建設中に掘り返された残土置き場としてイースタン・マウンドもできた。今日ではザ・マウンド(The Mound)として知られているが、それが現在の姿になったのは1830年代のことだった。

新市街が発展してくると、富裕層は狭苦しい地区の窮屈な住居から、新市街の広い街路沿いのジョージ朝様式の大邸宅へと移り住むようになった。しかし、貧民層は旧市街にとどまった。


エディンバラの旧市街と新市街
シャーロット広場の北側。右手にあるのがビュートハウス

最初の新市街
新しい郊外にふさわしい近代的なレイアウトを見出すためのデザインコンペが1766年1月に開かれ、22歳の設計士ジェイムズ・クレイグ(James Craig)が優勝した。彼の示したデザインは簡素な格子状で、二つの庭園(garden squares)を結ぶかたちで、丘の背に沿って大通りが走るというものだった。そこから南北方面に下り坂の主要道路が走り、大邸宅向けの小道で出来た袋小路にそれぞれぶつかっている。さらに南北方面の道は他に3つあり、格子模様を完成させている。


通りの名前
主要な通りであるジョージ・ストリートは、時の国王ジョージ3世にちなんだものである。北にあるクイーン・ストリートは彼の妻に、南にあるセント・ジャイルズ・ストリートは都市の守護聖人に、それぞれ由来している。セント・アンドリュー広場とセント・ジョージ広場は、イングランドとスコットランドの統一を表すものとしてその名称が採用された。統一を表すという考えは、ジョージ・ストリートとクイーン・ストリートの間にあるシスル・ストリート(Thistle Street, シスルはスコットランドの国花)、ジョージ・ストリートとプリンスィズ・ストリートの間にあるローズ・ストリート(ローズはイングランドの象徴)にも引き継がれている。

しかし、ジョージ王はセント・ジャイルズ・ストリートという名前を拒絶し、息子にちなんでプリンスィズ・ストリート(Princes Street)と改称した。また、セント・ジョージ広場は、南側にあるジョージ広場と混同されないようにと王妃シャーロットにちなんでシャーロット広場と改称された。

シスル・ストリートの最西端のブロックは、ヒル・ストリートとヤング・ストリートと改称され、スコットランド名の街路がイングランド名の街路の半分の長さになるように調整された。格子を完成する3つの通りである、キャッスル、フレデリック、ハノーヴァーの各街路は、それぞれ城の眺め、ジョージ王の父フレデリック、ハノーヴァー家にちなんでいる。


開発
クレイグの計画は、開発に着手したときにいくつかの困難に直面した。まずは、野ざらしの新しい敷地には人が住んでいなかったので、最初に家を建てた者に20ポンドの特別手当が与えられることになった。疑念はすぐに解消され、セント・アンドリュー広場の東側で建設が始まった。

クレイグはそれぞれの広場に建てられた2つの教会がジョージ・ストリートの終着点になることを提案したが、サー・ローレンス・ダンダス(Sir Lawrence Dundas)が既にその敷地の所有者になっていた。クレイグはダンダス所有の邸宅をそこに建てることを決め、建築家ウィリアム・チェンバーズからデザインを任された。その結果建てられたパッラーディオ様式の邸宅は1774年に完成し、今ではロイヤルバンク・オブ・スコットランドの本店になっている。セント・アンドリューズ教会はジョージ・ストリートの一角に建てられた。この街路の端には視覚に訴えるような終着点を示すものが欠けていたが、1823年にウィリアム・バーン(William Burn)がヘンリー・ダンダス(Henry Dundas)の記念碑を建てたことで解消された。

当時の新市街(第一新市街)は、シャーロット広場の建設とともに1800年に完成した。これはロバート・アダムの設計で建てられたもので、新市街の中では唯一の建築的統一性を持つ地区だった。アダムはセント・ジョージ教会の設計も手がけたが、そちらはロバート・レイド(Robert Reid)の設計に取って代わられた。現在ウェスト・レジスター・ハウスとして知られている建物には、スコットランド国立古文書館(National Archives of Scotland)の一部が入っている。

シャーロット広場の北側にはビュート・ハウス(Bute House)がある。これはかつてはスコットランド大臣の官舎だったが、スコットランドへの内政権付与の結果、スコットランド首相(First Minister of Scotland)の官邸になった。


再開発
新市街は純粋に居住用の郊外と考えられていた。貴族の別邸が散在し、それらには主な通りを区切っていたアパートメント(スコットランドでは借家をこう呼んだ)のブロックや、サービス業(ダンスの先生、かつら製造業者など)の借家に使われることが多かった袋小路などがついて回った。しかし、新市街が持っていた商業的な可能性が花開くのにはさして時間がかからなかった。

プリンスィズ・ストリートにはすぐに店舗が軒を連ねるようになり、その街路にあった貴族の別邸の大半は、19世紀中にはより大きな商業施設に置き換えられた。断片的な再開発は今日まで続いているが、第一新市街(クイーン・ストリート、シスル・ストリート、ジョージ・ストリートの大区画、ハノーヴァー、フレデリック、キャッスルの各街路)には、18世紀後半当時の建造物群がまだ並んでいる。第二新市街の大部分にも、1800年代初期に遡る建造物群がまだ残っている。


第二新市街
スコットランドの紋章院が入っているニュー・レジスター・ハウス1800年以降、最初の新市街の成功はより大きな計画へと結びついた。第二新市街はまたの名を新新市街(New New Town)といい、エディンバラを遥かリース川(Water of Leith)にまで拡張しようというものだった。エディンバラとリース川は、ストックブリッジ(Stockbridge)、ディーン(Dean)、キャノンミルズ(Canonmills)、シルヴァーミルズ(Silvermills)の各村で繋がっていた。開発は統一性を持って行われてはいたが、シルヴァーミルズの場合、皮なめし工場の操業の影響で、近隣での開発は数十年間にわたって抑制された。

新しい開発は街路全てを一纏りに建造するシャーロット広場のパターンに従った。クイーン・ストリート・ガーデンズはクイーン・ストリートの北に配置された。その庭園群を越えて、ダンダス・ストリート(Dundas Street)沿いに建物が続く。この街路はハノーヴァー・ストリートから拡張されたもので、キャノンミルズではリース川までほぼ1km に位置している。どちらの側にも広い街路群や大きな広場群が配置されている。

三番目にして最後の開発で、第二新市街の西側に位置するマリ伯(Earl of Moray)の領地に、マリ広場(Moray Place)とその周辺街路群が整備された。


文化
エディンバラの旧市街と新市街 国立スコットランド美術館(National Gallery of Scotland)新市街のザ・マウンドには、国立スコットランド美術館(National Gallery of Scotland)とロイヤル・スコティッシュ・アカデミー(Royal Scottish Academy)があり、クイーン・ストリートにはスコットランド国立肖像画美術館(Scottish National Portrait Gallery)がある。

ほかの有名な建造物としては、ジョージ・ストリートのthe Assembly Rooms、ウェーヴァリー駅に繋がっているバルモラル・ホテル(Balmoral Hotel, かつては鉄道会社にちなんでノース・ブリティッシュ・ホテルと呼ばれた)とその時計塔、そして詩人ウォルター・スコットを称えたスコット記念塔(Scott Monument)である。


ショッピング
新市街には、エディンバラの主要商店街が集まっている。プリンスィズ・ストリートにはジェンナーズ(Jenners)のような店舗群が並ぶ。かつて金融の中心地だったジョージ・ストリートでは、銀行だった建物に多くの現代的なバーが入っている。

また、新市街の東端にあるセント・ジェイムズ・センター(St. James Centre)は1970年に完成した屋内ショッピング・モールである。そこには、サー・バジル・スペンス(Sir Basil Spence)がデザインしたジョン・ルイス(John Lewis)の大きな支店も入っている。ただし、このモールの存在は、しばしば新市街の建造物群への歓迎されざる加入と見なされている。


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カンタベリー大聖堂

カンタベリー大聖堂
(英名) Canterbury Cathedral, St. Augustine's Abbey, and St. Martin's Church
(仏名) Cathédrale, abbaye Saint-Augustin et église Saint-Martin à Cantorbéry
登録年 1988年

カンタベリー大聖堂(-だいせいどう)は、イギリスのイングランド南東部ケント州のカンタベリーにある教会で、イギリス国教会の総本山。7世紀にカンタベリーのアウグスティヌスがイギリスに布教し、修道院として建設された。

カンタベリー大聖堂12世紀に王と対立した大司教トマス・ベケットが殉教したことから聖地として多くの巡礼者が訪れる場所でもある。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』もカンタベリー巡礼者の物語である。

現在の建物は1070年-1180年にロマネスク様式、1379年-1503年にかけてゴシック様式で建設された歴史的建造物である。1988年に世界遺産に登録された。

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ロンドン塔

ロンドン塔
(英名) Tower of London
(仏名) Tour de Londres