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ヨーロッパの世界遺産 World Heritage

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シュトルーヴェの測地弧

シュトルーヴェの測地弧

(英名) Struve Geodetic Arc
(仏名) Arc géodésique de Struve
登録年 2005年

ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧シュトルーヴェの測地弧(シュトルーヴェのそくちこ)は、ドイツ出身のロシアの天文学者フリードリッヒ・ゲオルグ・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年にかけて設置された三角測量点群。

これらの観測点群は地球の大きさなどを正確に測る上で多大な貢献をしたものであり、当時設置された拠点のうち、34拠点を対象として2005年にユネスコの世界遺産に登録された。

これは10か国にまたがる珍しい物件であるが、設置された当時の国境区分ではわずか2か国(スウェーデン=ノルウェー、ロシア帝国)にまたがっているに過ぎないものであった。


●北端ノルウェーのFuglenes北緯70度40分12秒東経23度39分48秒
●南端ウクライナのStaro-Nekrassowka北緯45度19分54秒東経28度55分41秒


ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧
シュトルーヴェ


登録地の一覧
赤点が世界遺産に登録された地点

ノルウェー
Fuglenes in ハンメルフェスト
Raipas in en:Alta
Luvdiidcohkka in en:Kautokeino
Baelljasvarri in Kautokeino

スウェーデン
"Pajtas-vaara" (en:Tynnyrilaki) in キルナ
"Kerrojupukka" (en:Jupukka) in en:Pajala
en:Pullinki in en:Övertorneå
"Perra-vaara" (Perävaara) in en:Haparanda

フィンランド
Stuor-Oivi (現 Stuorrahanoaivi) in en:Enontekiö (Enontekis in Swedish)
Avasaksa (現 アーバサクサ) in en:Ylitornio (Övertorneå in Swedish)
Tornea (現 Alatornion kirkko) in en:Tornio (Torneå in Swedish)
Puolakka (現 Oravivuori) in en:Korpilahti
Porlom II (現 Tornikallio) in en:Lapinjärvi (en:Lappträsk in Swedish)
Svartvira (現 Mustaviiri) in en:Pyhtää (Pyttis in Swedish)

ロシア
"Mäki-päälys" (Mäkinpäällys) in en:Hogland
"Hogland, Z" (Gogland, Tochka Z) also in Hogland

エストニア
"Woibifer" (Võivere) in Avanduse
"Katko" (Simuna) in Avanduse
"Dorpat" (Tartu observatory) in タルトゥ

ラトビア
"Sestu-Kalns" (Ziestu) in Sausneja
"Jacobstadt" (Jekabpils) in en:Jekabpils

リトアニア
"Karischki" (Gireišiai) in Panemunėlis
"Meschkanzi" (Meškonys) in en:Nemenčinė
"Beresnäki" (Paliepiukai) in Nemėžis

ベラルーシ
"Tupischki" (Tupishki) in en:Oshmyany地区 (54°17′29″N 26°2′43″E / 54.29139, 26.04528)
"Lopati" (Lopaty) in Zelva地区 (53°33′37″N 24°52′11″E / 53.56028, 24.86972)
"Ossownitza" (Ossovnitsa) in Ivanovo地区 (52°17′21″N 25°38′58″E / 52.28917, 25.64944)
"Tchekutsk" (Chekutsk) in Ivanovo地区 (52°12′55″N 25°33′12″E / 52.21528, 25.55333)
"Leskowitschi" (Leskovichi) in Ivanovo地区 (52°9′38″N 25°34′17″E / 52.16056, 25.57139)

モルドバ
"Rudi" in Rudi

ウクライナ
Katerinowka in Antonivka, Khmelnytsky Oblast ( 49°33′57″N, 26°45′22″E)
Felschtin in Hvardiiske, Khmelnytsky Oblast ( 49°19′48″N, 26°40′55″E)
Baranowka in en:Baranivka, Khmelnytsky Oblast ( 49°08′55″N, 26°59′30″E)
Staro-Nekrassowka (Stara Nekrasivka) in Nekrasivka, en:Odessa Oblast ( 45°19′54″N, 28°55′41″E)

ユネスコ世界遺産シュトルーヴェの測地弧


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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diemausic9 15:08 | コメント(167) | トラックバック(2) | ウクライナ

リヴィフ歴史地区

リヴィフ歴史地区L'viv - the Ensemble of the Historic Centre

(英名) L'viv - the Ensemble of the Historic Centre
(仏名) Lviv - ensemble du centre historique
登録年 1998年


ユネスコ世界遺産 リヴィウ L'viv - the Ensemble of the Historic Centreリヴィウ(ウクライナ語:Львівリヴィーウ)は、ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州都。

なお、この町の名に関する日本語表記にはさまざまなバリエーションがある。ウクライナ語名として「リヴィウ」、ロシア語名として「リヴォフ」(Львов リヴォーフ)、ポーランド語名として「ルヴフ」(Lwów ルヴーフ)、ドイツ語名として「レンベルク」(Lemberg レンベルク)と表記される。文献上で圧倒的に多いのはロシア語風表記であったが、近年はウクライナ語名で書かれることも少なくなくなってきた。ポーランド名やドイツ語名は、この都市がポーランド語圏やドイツ語圏の国家によって支配された時代に限り、適正に使用される。日本語の地図帳などでしばしば見られた「リヴィフ」という表記は、ウクライナ語名をロシア語若しくはポーランド語読みしたと考えられる表記で、日本語での慣用でありウクライナ語名としては正しくない。また、ロシア語名をもとにしたローマ字読み風表記として「ルヴォフ」が使用されることもある。


概要
リヴィウは、西ウクライナ・ハルィチナーの中心都市である。人口は約83万人。ポーランドとの国境から70km。

温暖な大陸性の気候で、1月の平均気温は-4度、7月の平均気温は18度。年間の降水量は660mm。夏季にはしばしば水が不足する。

歴史地区はユネスコの世界遺産に登録されている。


歴史
すでに5世紀にはこの地に人が住んでいたようである。大モラヴィア国(9世紀-10世紀)が滅んだ後は、ポーランドとキエフ・ルーシの角逐の場となった。981年にキエフ・ルーシのウラジーミル大公によって征服された。13世紀にはルテニア公国のダニロ王によって都市が建設され、その息子レヴに因んで名づけられた。1256年の年代記にすでに都市として言及されている。

1386年にヤギェウォ朝ポーランドに服属する。ポーランド(後にポーランド・リトアニア連合王国)の支配下で、リヴィウは黒海とバルト海を結ぶ交易路の中継地として大きく発展した。17世紀はじめの人口は約3万人。

17世紀を通じて、リヴィウはウクライナ・コサックやスウェーデン、オスマン帝国などの相次ぐ襲撃を受けた。1704年には北方戦争でカール12世の率いたスウェーデン軍に占領され、町は破壊された。

1772年の第1回ポーランド分割によって、リヴィウはオーストリア帝国に帰属される。公用語はドイツ語とされ、ドイツ人やチェコ人が実権を握った。19世紀初めより、オーストリア帝国政府はドイツ化を強く推し進め、それに対して1848年には民衆蜂起が起こった。住民の請願は後に受け入れられ、1860年代には大きく自治が認められた。その後、リヴィウはポーランド文化の中心地としても、また、ウクライナ文化の中心地としても重要な都市となった。その時代、ウクライナのその他の地域はロシア帝国に支配されており、ウクライナ語による出版は禁じられていた期間が長かった。

第一次世界大戦で、1914年にリヴィウは一旦ロシア軍に占領されたが、翌1915年には再びオーストリア・ハンガリー帝国によって奪還された。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が消滅すると、1918年11月1日、西ウクライナ国民共和国の独立が宣言され、リヴィウはその首都とされた。

しかし、それに対してポーランド人の住民が蜂起し、都市の中心部を掌握した。ポーランド・ウクライナ戦争におけるポーランド人とウクライナ人の住民のあいだの戦闘は翌1919年7月まで続き、多くの犠牲者が出た。戦闘はポーランド軍の全面的支援を受けたポーランド側の圧勝に終わり、再びポーランドの支配が復活した。西ウクライナ国民共和国勢力の残党は、キエフやジトームィルを中心に国家を建設していたウクライナ国民共和国に政府を統合させたり、あるいは赤軍と合同してポーランドとの戦闘を継続した。

その後、ウクライナ国民共和国のドィレクトーリヤ政府は、ロシアの赤軍に対抗するためにポーランドからの協力をとりつけた代わりに、ポーランドのリヴィウに対する支配を認めた。1920年のポーランド・ソビエト戦争では、武装した住民が市内に侵攻した赤軍を撃退した。しかしながら、ポーランドはウクライナを裏切って単独でソビエト側との講和に入った。1920年10月12日のリガ講和条約でソ連はリヴィウを含む一帯をポーランドに明け渡した。

第二次世界大戦において、1939年9月1日にポーランドに侵攻したドイツ軍は、その後まもなくリヴィウを包囲した。ポーランド兵の率いた蜂起は失敗し、町はモロトフ・リッベントロップ協定にもとづきソビエト連邦に引き渡された。1941年6月22日に始まった独ソ戦の緒戦で町はドイツ軍に占領された。


ユネスコ世界遺産 リヴィウ L'viv - the Ensemble of the Historic Centre
ヤン3世 (ポーランド王)の宮殿の中庭


第二次世界大戦後、一帯はウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土とされた。その際に、ポーランド人の住民の大部分がポーランドに移ったとされる。それ以後、リヴィウはウクライナの民族文化の中心都市の一つとして、ロシア化への抵抗の牙城となった。

1803年以来東方典礼教会のひとつであるウクライナ・ギリシャ=カトリック教会の総本山がおかれたが、2005年8月、ウクライナ・ギリシャ=カトリック教会はキエフに本拠地を移した。


交通

路面電車リヴィウ市電、バスなどがある。空港としては、リヴィウ国際空港が空の玄関口となっている。

教育
大学
イヴァン・フランコー記念リヴィウ国立大学(ヤン・カジミェシュ大学)
リヴィウ工科大学

リヴィウ出身の人物
ヤン・ウカシェヴィチ:論理学者・哲学者
アダム・ウラム:歴史学者
ボグスワフ・シェッフェル:作曲家、劇作家、画家、音楽学者
ミハイル・フリードマン:企業家
アレクシス・フォン・マイノング Alexis von Meinong:哲学者
アレクサンドラ・マリーニナ:推理作家
ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス:経済学者
リヒャルト・フォン・ミーゼス:科学者
グリゴリー・ヤブリンスキー:政治家
スタニスワフ・レム:小説家、SF作家、思想家
アダム・ラパツキ:政治家
モーリツ・ローゼンタール:ピアニスト
アルフレート・ロトカ:統計学者
ヴォイチェフ・キラール:作曲家
ザッヘル・マゾッホ:小説家


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』








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diemausic9 11:37 | コメント(13) | トラックバック(0) | ウクライナ

キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院

キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院

(英名) Kiev: Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings, Kiev-Pechersk Lavra
(仏名) Kiev : cathédrale Sainte-Sophie et ensemble des bâtiments monastiques et laure de Kievo-Petchersk
登録年 1990年

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavra聖ソフィア大聖堂 (キエフ)

聖ソフィア大聖堂(ウクライナ語:Собор святої Софіїソボール・スヴャトーイィ・ソフィーイィ、またはСофійський Соборソフィーイスィクィイ・ソボール)
はウクライナの首都、キエフの真中心にあるキリスト教の大聖堂である。ウクライナ最初の中央政権国家、キエフ・ルーシ最大の聖堂として1037年に建立された。現代において、11世紀から18世紀までのウクライナ建築史上最も名立たる教会であるとされる。1990年に世界遺産に登録された。

歴史
ルーシ年代記によれば、聖ソフィア大聖堂は1017年ないし1037年にキエフ大公国のヤロスラウ大公によって建立されたのである。また、同じの年代記の伝説によれば、その大聖堂はヤロスラウがペチェニーヒの大軍を破り、大勝利を得た場所に建てられたという。

聖ソフィア大聖堂は、キリスト教と国家の権威を主張するために造られた。その大聖堂は11世紀から13世紀半ばまでに、ルーシの大司教の座、大公たちの即位儀式・結婚式・葬式の場所、それに、異国使節団の接待の場所として多面的に利用されてきたのである。大聖堂ではルーシ初の図書館と大学が存在し、国家の歴史編纂作業も行われていた。

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavraキエフの聖ソフィア大聖堂は中世ヨーロッパの建築の中で最も大きい建物の一つであった。その広さは54.6メートル、長さは41.7メートル、床から中央ドームまでの高さは28.6メートルほどであった。大聖堂は5つのネーヴ、5つのアプスと13のドームを有していた。大聖堂内では色彩に富んだモザイク・フレスコ・イコンがあった。全体として、大聖堂はビザンツ様式でたてられ、レンガ色の壁と鉛色のドームを持っていた。その名称は、ビザンツ帝国のコンスタンティノポリスにあった聖ソフィア大聖堂にちなんで名付けられたといわれている。

1169年にキエフは、現在のロシアの故郷とよばれるウラジーミル・スーズダリ大公国の軍勢によって略奪された。そのときは、聖ソフィア大聖堂は初めて大きな被害を受けた。その後、1240年、キエフはモンゴル帝国の大軍によって占領され、キエフ・ルーシが亡び、大聖堂は部分的に荒れ果てた。

1569年に聖ソフィア大聖堂はウクライナ・カトリック教会の司教座となり、大聖堂内では本格的に修理が行われた。1633年になると、その大聖堂はウクライナ正教会の手に渡され、イタリアの建築家、オクタヴィーノ・マンチーニが修理作業を指導した。その作業はようやく1740年にイヴァーン・マゼーパの時代に終わった。大聖堂は内部の古来の装飾が保存され、外部だけはウクライナ・バロック様式で造りかえられた。現存している聖ソフィア大聖堂は当時の姿のままである。

聖ソフィア大聖堂は、東ヨーロッパの諸国にとっては最も重要な聖地である。



キエフ・ペチェールシク大修道院

ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavraキエフ・ペチェールシク大修道院(ウクライナ語:Києво-Печерська лавраクィーイェヴォ・ペチェールスィカ・ラーヴラ;キエフの洞窟大修道院)はウクライナの首都、キエフのペチェールシク地区に位置するキリスト教の大修道院である。キエフ大公国の時代、1051年に建立された。ウクライナの比叡山ともいうべきもので、宗教・教育・学問に大きな影響を与えつつ、様々な政権と争ってきた修道院である。1990年に世界遺産に登録された。

現在、大修道院の地域は、キエフ・ペチェールシク歴史文化国立保護館と、モスクワの総主教に属するロシア系の「ウクライナ正教会」の間に分かれている。ウクライナ正教会の現在の指導者はヴォロディームィル・サボダン府主教である。


キエフ・ペチェールシク大修道院は、聖ソフィア大聖堂とともに「キエフ:聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ-ペチェールスカヤ大修道院」として、1990年に世界遺産に登録された。


ユネスコ世界遺産 キエフ 聖ソフィア大聖堂と関連する修道院建築物群、キエフ・ペチェールシク大修道院 Kiev Saint-Sophia Cathedral and Related Monastic Buildings Kiev-Pechersk Lavra
大修道院内の一番大きなウスペンシキイ大聖堂(生神女就寝の大聖堂)。

第二次世界大戦、1941年、キエフがドイツ軍の支配下にあった時、ソ連のKGBスパイは大聖堂を爆発させた。戦後、その事件の事実が隠され、事件そのものがソ連のプロパガンダによって「ナチス・ドイツによる文化遺産の崩壊の一例」として作り変えた。ソ連崩壊後、独立ウクライナ政府の支援によって復建された。



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diemausic9 10:03 | コメント(9) | トラックバック(4) | ウクライナ

アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道

アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道

(英名) Rhaetian Railway in the Albula / Bernina Landscapes
(仏名) Chemin de fer rhétique dans les paysages de l’Albula et de la Bernina
登録年 2008年


ユネスコ世界遺産 アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道レーティッシュ鉄道
レーティッシュ鉄道(レーティッシュてつどう、ドイツ語: RhB: Rhätische Bahn)
は、スイス東部のグラウビュンデン州を中心に約400kmの路線網を持つスイス最大級の私鉄である。

沿線にサンモリッツやダヴォスなどの世界的なリゾート地を持ち、氷河急行やベルニナ急行といった看板列車を走らせている観光路線であるほか、地域の生活路線としても旅客・貨物輸送共に多数の列車を運行してグラウビュンデン州の鉄道輸送をほぼ一手に担い、州の経済において重要な役割を果たしており、主要路線は世界遺産登録もされている。日本語ではレーテッシュ鉄道、レーティッシェ鉄道などとも表記される。

概要
レーティッシュ鉄道はグラウビュンデン州の州都クールに本社を置くスイス最大級の私鉄で、以下の各国語で表記され、所属する車両にもいずれかの表記でロゴが入れられている。

ドイツ語表記:Rhätische Bahn
イタリア語表記:Ferrovia retica
ロマンシュ語表記:Viafier retica

なお、レーティッシュ鉄道の名前の由来は紀元前3000年頃からこの地に住んでいたとされるスイス東部の先住民族であるラエティア族[1]の名にまで遡ることができる。

ユネスコ世界遺産 アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道
グラウビュンデン州にはスイス連邦鉄道(スイス国鉄)はほとんど路線を持たず、レーティッシュ鉄道がほぼすべての鉄道輸送を担っている、このため、私鉄でありながら、株式の51%をグラウビュンデン州が、43%をスイス連邦が所有し、民間の所有は6%となっており、多くの機関車の前面にはグラウビュンデン州の紋章が設置されているほか、2004年以降順次採用されている車両の新塗装では車体側面にもグラウビュンデン州のロゴが入っている。

スイスアルプスの山岳地帯に路線を持つが、ラック式には頼らず、勾配を本線系統では45パーミル、ベルニナ線やクール・アローザ線でも70パーミルや60パーミルに抑え、ループ線やトンネルを多用することですべて粘着式鉄道としているのが特徴で、結果として長大編成の列車を運行可能としている。

ユネスコ世界遺産 アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道レーティッシュ鉄道はラントクアルトからダヴォスまでの路線を建設したラントクアルト・ダヴォス鉄道を前身としている。同社が最初にダヴォスまでの路線を計画した際にはラック式やスイッチバックによることも検討された。しかし、結果的には通常の粘着式鉄道とし、スイッチバックも1箇所(これも後に解消される)のみとし、費用的な面から標準軌ではなくメーターゲージで建設することとなり、このときの決定がその後のレーティッシュ鉄道の各路線建設における基本方針となっている。

ラントクアルト・ダヴォス鉄道は1890年にはダヴォスまでの路線を開業させたが、グラウビュンデン州の他の地域へ路線を拡大することから、1895年には社名をレーティッシュ鉄道に変更し、その後1897年には住民投票により州営となり、結果その後急速に路線を拡大していくこととなった。

第一次世界大戦による石炭価格の高騰により、交流11kV16.7Hzでの電化が検討され、エンガディン線開業時にサメダン - シュクオール・タラスプ間が電化されたのを皮切りに1913年から1922年にかけて本線系統はすべて電化されている。なお、スイス国鉄などでは交流15kVを採用しているが、レーティッシュ鉄道ではトンネル断面が小さいため、絶縁上の問題から11kVと低い電圧を採用している。

ユネスコ世界遺産 アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道1942年には同じクールとリゾート地のアローザを結ぶクール・アローザ鉄道とティチーノ州のベリンツォーナ・メソッコ鉄道を、1943年にはサンモリッツとイタリアのティラーノを結ぶベルニナ鉄道を合併し、グラウビュンデン州の鉄道をレーティッシュ鉄道に統合した。

第二次世界大戦後1970年代までは財政的には厳しかったものの、助成金によって路線や駅の廃止せずに乗切ることができたが、スイス国鉄によるレーティッシュ鉄道の統合も議論されることがあった。1970年代以降1980年代にかけての助成金の減少に伴い、レーティッシュ鉄道は観光鉄道としての利用喚起に本腰を入れるようになり、美しい沿線風景を旅行者にアピールした結果、氷河急行、ベルニナ急行、ハイジ急行などの看板列車は1年を通じて多数の旅行者を輸送することとなった。また、利用の少ない駅の廃止や停留所の格下げもこの時期に実施されているが、その後も続く財政問題の解決のため、現在も合理化プログラムが進行中である。

レーティッシュ鉄道とスイス、イタリアおよび各沿線自治体ではアルブラ線とベルニナ線とその沿線の景観について、世界遺産登録を目指してGe4/4 III形650号機およびABe4/4 51-56形51号機をラントヴァッサー橋をデザインした広告塗装機とするなどの活動を行ってきたが、その結果2008年の第32回世界遺産委員会で「アルブラとベルニナの景観群におけるレーティッシュ鉄道」として正式に世界遺産リストに登録されている。なお、鉄道に関する世界遺産はオーストリアのゼメリング鉄道、インドのインドの山岳鉄道群に続き3例目である。


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diemausic9 10:42 | コメント(24) | トラックバック(3) | イタリア

マントヴァとサッビオネータ

マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbioneta

(英名) Mantua and Sabbioneta
(仏名) Mantoue et Sabbioneta
登録年 2008年


ユネスコ世界遺産マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbionetaマントヴァ(Mantova)
マントヴァ(Mantova)
はイタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県のコムーネの一つで、マントヴァ県の県都である。

マントヴァは三方を12世紀につくられた人工湖によって囲まれている。これらはガルダ湖から発したミンチョ川の水をせき止めたものである。3つの湖はそれぞれ大きな方から、スペリオーレ湖、メッツォ湖、インフェリオーレ湖と呼ばれている。4番目の湖パジョロ湖はかつて市を環状に巡った防御用のものであったが、18世紀末に干拓された。

マントヴァは、ウィリアム・シェークスピア作の悲劇『ロミオとジュリエット』の中に登場する。劇中、ロミオはティボルトを誤って殺害し、町から追放される。彼はただちにマントヴァへ向けて発ち、愛するジュリエットの死の知らせを聞いてヴェローナへ帰還する。

マントヴァは、カトリックのマントヴァ司教座が置かれている。

歴史
市の前身である定住地ができたのは紀元前で、ミンチョ川岸にある天然の防御地ともいうべき島の上であった。そしてそこに暮らすようになったのはエトルリア人であった。

マントヴァという名は、エトルリアの神マントゥス(ギリシャ神話のハデス神に相当する)に由来する。ガリア人の一部族セノマニ族に占領された後、第一次ポエニ戦争と第二次ポエニ戦争の間にローマ人によって征服された。彼らはギリシャ神話の予言者テイレシアースの娘マント(en)とマントヴァの名前を混同していた。新たな領土は、アウグストゥスの退役した兵士らが入植した。古代ローマの詩人ウェルギリウスは、マントヴァ近郊で生まれたとされている。

ローマ帝国滅亡後、マントヴァは東ローマ帝国、ランゴバルド王国、フランク王国に占領された。11世紀、トスカーナ侯であるボニファーチオ・ディ・カノッサが町を領有した。彼の一族最後の支配者は、マティルデ・ディ・カノッサ女伯で、言い伝えによると、彼女は貴重なサン・ロレンツォのロトンダ(1082年)建設を命じたとされる。

マティルダの死後、マントヴァは帝国自由都市となった。12世紀と13世紀には熱心に神聖ローマ帝国から自らを守った。1198年、アルベルト・ピテンティーノがミンチョ川流域を効果的に活用した。彼はマントヴァ人が4つの湖と呼ぶ市の天然の防衛設備をつくり、補強したのである。1215年から1216年、市はゲルフに属するランベルティーノ・ブヴァレッリの勢力下へ入った。

ゲルフとギベリンの闘争の最中、ピナモンテ・ボナコルシが1273年に混沌とした状態つけこんで実権を掌握した。彼の一族が14世紀までマントヴァを支配し、さらなる繁栄と都市の芸術的な美をつくった。1328年8月16日、最後のボナコルシ家当主リナルドは、一族に仕える兵士であったゴンザーガ家が背後で操る反乱で倒された。1318年に市のポデスタであったルイージ・ゴンザーガは、市民隊長に選ばれた。ゴンザーガ家が5つの門を持つ新たな市壁を建て、14世紀には市の建築物を修繕した。しかし、市での政治的な地位は三代目のルドヴィーコ1世・ゴンザーガの代まで確固なものではなかった。彼は競争相手である親族を排除し、自身で実権を握った。

1433年、ジャンフランチェスコ1世・ゴンザーガはフローリン金貨12万枚を支払ったことで、神聖ローマ皇帝ジギスムントによてマントヴァ侯位を授けられ、彼の息子ルドヴィーコが、ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯ヨハンの娘、バルバラ・ディ・ブランデブルゴと結婚した。1459年、ローマ教皇ピウス2世はマントヴァにおいて、対オスマン帝国の十字軍を宣言する会議を開いた。有名なルネサンス期の画家アンドレア・マンテーニャはマントヴァで宮廷画家として働き、優れた作品を残している。

1530年、フェデリーコ2世・ゴンザーガは、皇帝カール5世よりマントヴァ公の称号を授けられた。フェデリーコ2世はジュリオ・ロマーノに命じてパラッツォ・デル・テ(テ宮殿)をつくらせた。この宮殿は市の外面を占め、市の都会計画化側面を完全に改革した。マントヴァについて、詩人トルクアート・タッソは、1586年に書いている:

マントヴァは非常に美しい都市であり、マントヴァを見るのに1千マイル旅行するほど値打ちがある

1624年、フランチェスコ4世・ゴンザーガは公の邸宅を新たなヴィッラ・デッラ・ファヴォリータへ移した。この邸宅を設計したのは建築家ニッコロ・セブレゴンディである。

1627年、ゴンザーガ家の直系男子がひ弱なヴィンチェンツォ2世・ゴンザーガをもって断絶すると、マントヴァは新たな支配者となったフランスでの分枝ゴンザーガ=ネヴェルス家のもとでゆっくりと衰退していった。マントヴァ継承戦争が勃発し、1630年には36,000人もの帝国軍側傭兵(ランツクネヒト)によってマントヴァは包囲され、黒死病が町に蔓延した。マントヴァはこの大災害から回復することはなかった。最後のマントヴァ公カルロ4世・ゴンザーガ=ネヴェルスは、スペイン継承戦争においてフランス側と同盟した以外は、支配者に不向きな人物であった。カルロ4世はマントヴァを帝国に奪われると約百点にのぼる絵画とともにヴェネツィア共和国へ亡命した。1708年にカルロが死ぬと、マントヴァ公位は廃位され、ゴンザーガ家は永久にマントヴァを失い、以後ハプスブルク家支配となった。

オーストリア支配のもと、マントヴァは復興を謳歌し、この時代、王立科学アカデミー、劇場、そして多くの邸宅が建てられた。

1796年6月4日、ナポレオン戦争の最中、第一次対仏大同盟に加わっていたオーストリアに対抗するナポレオンにマントヴァは包囲される。オーストリア軍とロシア帝国軍は包囲網を突破するのに失敗したが、別の戦闘で戦った7月31日に包囲が断念されるほど十分にフランスの包囲網は厚く広げられた。包囲戦は8月24日に再び始まった。2月上旬、市は降伏し、フランス管理下へ下った。2年後の1799年、オーストリア軍のマントヴァ包囲戦によって、マントヴァはフランスから解放された。

のち、市は再度ナポレオンに占領された。1810年、ジューリア門(ボルゴ・ディ・ポルトにある市門)において、反ナポレオン暴動をチロルで率いていたアンドレアス・ホーファーが銃撃された。

事実上のフランス支配の後、マントヴァは1814年にオーストリア支配へ復帰し、北イタリアの要塞都市クアドリラテロの一つになった(他はペスキエーラ・デル・ガルダ、レニャーノ、ヴェローナ)。オーストリアに対する扇動が、1851年から1855年にかけての反乱として全盛を極めた。そしてそれは最終的にオーストリア軍に弾圧された。イタリアのリソルジメントを象徴する有名なエピソードの一つに、反乱分子らがオーストリア軍によって絞首刑とされたベルフィオーレ谷事件がある。

1866年、マントヴァはサルデーニャ王国によるイタリア再統合運動によって併合された。

マントヴァ(Mantova)の見どころ
ゴンザーガ家は芸術と文化を保護し、レオーネ・バッティスタ・アルベルティ、アンドレア・マンテーニャ、ジュリオ・ロマーノ、ドナテッロ、ルカ・ファンセッリ、ニコロ・セブレゴンディといった重要な芸術家を抱えていた。これら多くの傑作がちりぢりになっても、マントヴァの文化的価値はそれでもなお傑出している。

パラッツォ・テ - 晩年マントヴァで暮らしたジュリオ・ロマーノが、成熟したルネサンス様式でつくった。フェデリーコ2世・ゴンザーガの夏の宮殿であった。現在はチヴィコ美術館が入っている。
ユネスコ世界遺産マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbioneta
パラッツォ・テ

パラッツォ・ドゥカーレ (マントヴァ)- ゴンザーガ家の有名な居城。多くの建物、田園庭園、庭園がパラッツォ・デル・カピターノ、マニャ・ドムス、カステッロ・ディ・サン・ジョルジョ周囲に集まっている。
ユネスコ世界遺産マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbioneta
パラッツォ・ドゥカーレ (マントヴァ)

サンタンドーレア・ディ・マントヴァ聖堂 - ルネサンス様式。ルドヴィーコ2世・ゴンザーガの命でレオーネ・バッティスタ・アルベルティが設計。

ドゥオーモ (マントヴァ) - 現在の建物は14世紀のゴシック様式

ロトンダ・ディ・サン・ロレンツォ - カノッサ伯家時代に建てられた、マントヴァ最古の教会
ユネスコ世界遺産マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbioneta
ロトンダ・ディ・サン・ロレンツォ

ビビエナ劇場

サン・セバスティアーノ教会 - 15世紀

パラッツォ・ヴェスコヴィーレ(Palazzo Vescovile di Mantova、司教邸宅)

パラッツォ・デリ・ウベルティ(Palazzo degli Uberti)

ガッビア塔(Torre della Gabbia、籠の塔)

パラッツォ・デル・ポデスタ(Palazzo del Podesta) - 現在タツィオ・ヌヴォラーリ博物館が入っている。

オロロジーオ塔(Torre dell'Orologio、時計塔)のあるパラッツォ・デッラ・ラジオーネ(Palazzo della Ragione)

パラッツォ・ボナコルシ(Palazzo Bonacolsi)

マントヴァ(Mantova)出身者
●ウェルギリウス - 紀元前1世紀の古代ローマ詩人。マントヴァ近郊の生まれ。
●ピエトロ・ポンポナッツィ - 哲学者
●デイブ・ロジャース - ユーロビートミュージシャン





サッビオネータ(Sabbioneta)
サッビオネータ (Sabbioneta)
は、人口4,260人のイタリア共和国ロンバルディア州マントヴァ県のコムーネの一つである。

ヴェスパシアーノ・ゴンザーガによって作られ、ゴンザーガ家の公国の中心であった。

ユネスコ世界遺産マントヴァとサッビオネータ Mantua and Sabbioneta

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